Devium
榑樹那津
プレリュード
ロンドン、ケンジントン。月が雲に隠れた夜。夜も更け外には誰もいない静寂の宵。
この家の主ミレイユは押し入れの中で息を殺していた。ハンガーにかかった服を押しのけて膝を抱えて口を両手で覆って震えていた。目にはクマができ、ここ数日眠れていない。
常にだれかに見られている気配が背中にこびりつく嫌な感じが朝も夜も付きまとう。いそいで警察に相談したが、「特変課に伝えておきます」と皆口をそろえて言い、対応してくれない。彼氏にも相談したが、「キミはチャーミングだからみんなの目をくぎ付けにしてしまう」と適当を言う始末。友人の家に泊まらせてもらった時もあった。しかし気配が消えることはなく、友人からも「来ないでくれ」と拒絶されてしまった。家に帰ってからはこうして塞がれたクローゼットに入って朝を待つしかできなかった。
そしてここ一週間でその気配は形となって表れるようになった。目が覚めると昨日来ていた服がなくなっていたり、捨てた生理用品が消えたりとその事象は気持ち悪いの一言では片付けられないものになった。
「——ッ⁉」
ジージーというインターホンの音が鳴り響く。物がなくなること今まであった。しかしインターホンが鳴るなんてことは今まではなかった。郵便?何かを頼んだ覚えはない。仕送り?両親は3年前のテロで他界した。
ドアの金具が軋み音を立てて開かれる。ドシ——ドシ——という鈍重な音が寝室に近づいてくる。
「ミレイユ、迎えに来たよゃ。さあぉ、姿を見せてぅ」
壊れたスピーカーのように歪曲で音程の崩れた声。どこか聞き覚えのあるその声にミレイユは恐怖した。
「どうしてぅ僕のところにぁ来てくれないんだいょ?僕らの恋を邪魔する者はもういないぁ!」
小刻みに震える身体は徐々に大きくなっていく。震えを止めようにも心の真から恐怖するその言葉。ミレイユには2年前から交際する彼氏がいたのだ。
——ガタッ
震える足がクローゼットの壁を蹴る。
「みぃつけた、ミレイユぁ」
近づく足音。扉一枚分の距離まで近づく。隙間から吹き抜ける掃きだめのようなにおい。
ゆっくりとドアが開き、その匂いの主のわたしは恐怖した。
「これでお前の願いは果たされる。よかったなあわが
「イヤ、嫌ァァァァァァ!」
甲殻類のような肌、歪とも思える長い手足。顔はワニのように口が長い。形容しがたきそれは映画に出てくるエイリアンそのものだった。伸びる手をがむしゃらに抵抗するが、鉄骨のように固い怪物の腕はびくともしなかった。
あきらかに異形な存在であることは確かだった。しかしその頬の上がった顔が笑っているのはミレイユにも理解できた。
手が彼女の白い肌に触れる瞬間、窓ガラスが割れる音が部屋中に響きわたる。雲が晴れ、月光が差し込む静寂の夜にひとりの影がそこはあった。
男のように高い身長と、女性を思わせるすらっとしたフォルム。腰まで伸びた月光に輝く月白の髪。端正な顔立ちと空のように澄んだ瞳。
着地と同時に女は怪物に向かってタックルを放つ。ミレイユはそのでたらめな速さによる風圧に目を覆い、目を開けたときにはふたりはそこにいなかった。
ほこりがまう玄関の向こうから洋紅の瞳の青年が走ってくる。
「だいじょうぶですか!」
「えっと——なにがどうなって。あなたたちは?」
「特殊事変捜査課からの依頼できました。僕たちはフラウト探偵事務所から来ました。弟子のカインです」
「えっと、あの女のお人は?」
「探偵のカノン・フラウトです。安全なところまでお連れします」
「えっと、大丈夫なんですかあんな怪物——」
「ご安心を、師匠はこの街を守るエクソシストですから」
出鱈目な速度でマンション5階から投げ出されるように宙を舞う。
カノンは空中で体勢を整え、直立のまま着地し、怪物が着地すると地響きが起きる。そこは拓けた公園だった。
「もう少しで契約満了だったのに……人間、手間をかけさせるな」
「女の家に押し掛けるだなんて紳士じゃないわ。恋は辛抱強く待つものよ悪魔さん」
その長い足でカノンの首元に腕を伸ばす怪物。しかしすばやく間合いを外して回避する。その長い手足から繰り広げられる連続殴打をすべて逸らし距離をとっていく。殴打を見切ったのかカノンは甘い一撃をカウンターで返す。
すこし重心がそれたところに腰に刺したダガーを手に向かって振るう。なぞった刃跡からは氷が発生する。その事象に動揺したのか一瞬動きが鈍る。カノンはその隙を見逃さず、畳みかけるように怪物の胴体目掛け、ダガーを突き刺していく。
氷によって動けなくなった怪物に回し蹴りを放ち壁へ叩きつける。
「人間の癖に——調子に乗るなぁ!」
「あら、人間相手に必死になるのね。あなたも契約者同様短期ね」
薄ら笑みを浮かべると、怪物の癪に障ったのか怪物は振りかぶって殴りかかる。しかし怪物が放つ拳よりも速くカノンの右拳が怪物の顔を穿つ。
「Warp——」
続けざまに放たれる左ジャブ。回し蹴り、肘撃ち、裏拳。流れるように解き放たれるカノンの攻撃を怪物が防ぐ手立てはなかった。連撃のコンビネーションと疾風の如き連撃が反応を凌駕する。
「どんな願いがあっても結構。けれどあなたたち悪魔が介入することを私は許さない」
向かってくる攻撃を軽やかな身のこなしでかわし攻撃を放つ。その動きはすでに怪物の動きを把握しているかの如く先読みし逸らしていく。
全ての攻撃を逸らされるのに激情する怪物。真っ直ぐに拳を放つがダガーの刃を立てられ真正面から裂かれる。
全身に走った斬跡と殴打跡が器物のお姿をみじめな姿へと変貌させた。
テムズ川のほうからカノンの弟子カインが走ってくる。
「師匠、ミレイユさんを特変課に送りました」
「ありがとうカイン。さて、そろそろ終わりにしましょうか」
肩幅よりも少し広く足を開き腰を引くして構える。ダガーを後ろに構え地面を強く蹴る。怪物は防御をしようとするが一瞬で距離を詰められ間に合わない。、胸の中心に突きつけられた刃。刃を中心にするように氷の結晶の模様が広がった。
抜くと同時に凍り付いた体はひび割れて砕かれた岩のように地面に転がる。
宵更けるケンジントンの公園に月光がぼんやりと降り注ぐ。静寂の中にカノン・フラウトはひとりそこに立っていた。
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