第3話 学校を休んだお隣さんにプリントを届け……ぬ

 で、放課後。

 マンションに戻ってきた僕は、鎖錠さんちの玄関前で顎に手を添える考える人ポーズでソワソワと忙しなく歩いていた。

 うろうろちょろちょろ。


 インターホンのボタンを押す。

 ただそれだけのことなのに、まるで自爆スイッチを押すかのような重苦しい緊張が心臓をきゅうっと締め付ける。


「インターホンを押す……プリントを渡す……それだけ。それだけ……」

 ブツブツと呟き、同じ場所を円を描くように歩く様は、傍から見たら不審者極まりないだろう。

 ただ、今の僕に他人の目を気にかけている余裕はなく、手の中に握られたプリントがくしゃくしゃになっていることにすら気が付いていなかった。


「あぁ……ヤバい、……なんかお腹痛くなってきた」

 へその辺りを撫でる。これまでの人生で、感じたことのない緊張に胃が悲鳴を上げていた。


 久しぶりに顔を合わせてなんて言えばいいのか。

 素直に『元気だった?』とか?

 それとも、『どうして急に来なくなったの?』と訊いてみる?

 でもそれは、問い詰めているようにも受け取れるし、カラカラに乾いた喉から発せられる声は、冷たい印象を与えてしまうかもしれない。

 嫌だなぁ。と、本心をそのまま伝えられない、言葉という伝達手段の不完全さを嘆く。


 じゃあ心がそのまま伝わってしまっていいのかというと、そんなこともないわけで。

 世界中の人々がネットワークみたいに繋がって、思った事がそのまま伝わるなんてことになったら、一生部屋から閉じこもって出てこない自信がある。

 言葉というのは、未完成だからこそ完成されているんだな、となんだかよくわからない結論にたどり着く。……なにを考えてたんだっけ?


 そうだ。

 鎖錠さんに会ってなにを話すかだった。

 ただ、仕切り直して考えると、そもそもとしてインターホンを押したところで鎖錠さんが出てくるかわからない。鎖錠さん母かもしれないし、鎖錠さん父かもしれない。

 父親に関しては、見たことも訊いたこともないので、存在しているのかすら疑わしいのだけど。

 だからといって、代わりにこの前のスーツのお兄さんみたいに、鎖錠さん母のお客様(意味深)に『こんにちは』って出てこられても困ってしまうわけで……。

 あれ? 誰が出てきても困るな。詰みでは? ガチャ確率に不備がある。


 だいたい、鎖錠さんは家にいるのが嫌だから僕の家に泊まっていたりしたわけで。

 彼女が出てくる可能性は限りなく低かった。

 だからといって、じゃあどこいるの? というと、皆目検討が付かない。1ヶ月前までは僕んちだったのが、遠い昔のようだ。

 ほんと、鎖錠さんについてなにも知らないなぁ、と改めて思い知らされる。


 なんかもう郵便受けにでも突っ込んどけばいいかな。

 なんて、尻込みしてしまう。弱腰な考えが頭の隅っこをチラつく。

 けれども、そういうわけにいかないのが、プリントの内容だった。


 三者面談のご案内。

 絶賛冷戦状態の鎖錠さん母娘にこれを投下するというのはなかなかにデンジャラスだと思う。

 鎖錠さん本人に届けばいいが、お母様が手に取ってしまった場合、なにが起こるかわからない。

 下手に鎖錠さん母が気を遣い距離を詰めようとした結果、決定的な亀裂が入ってしまうのではないかと、不安な想像ばかりが広がっていく。


 考え過ぎかなぁ。

 そう思う。けど、もしものことを考えると博打を打つわけにはいかなかった。

 あの不器用な母娘であれば尚更だ。遣える気は使い倒すのが吉。


 となると、やっぱり直接鎖錠さんに渡す必要があって……どうしよう。

 思考が堂々巡りだ。涙の海で濡れた身体を乾かすわけでもないのに。


「先生の頼まれごともあるしなぁ」

 プリントを渡す。そして、鎖錠さんの様子を報告する。

 面倒を押し付けられた気がしてならない。それを律儀に守ろうとする僕は、お人好しなのか、波風立たせたくない日本人気質なのか。


 とはいえ、頼まれて、こうして足を運んでいる以上、了承してなくても引き受けたも同然。

 そうなると、なにやら義務感のようなモノが発生してしまい、先生のお願いが足枷になって僕の逃走を妨げる。

 つくづく律儀だ。もしくは、意志薄弱。

 社畜適正は高そうだと、将来が不安になる。


「よし。じゃあ押そう」

 気持ちはラスボス前で『準備は万端ですか? ここから先は進むと引き返せなくなります』という無機質なアナウンスが流れた時の心境だ。

 あれ、間違いなく万全なのに、心配になって必ず『▶いいえ』を選択してしまう。もしかするとを恐れてしまう。


 ただ、ここはゲームではなく現実で。

 セーブもロードもない世界。やり直しはできない。


「いざ……」

 覚悟を決めて、人差し指を立てる。

 そのまま『準備万端ですか?』の『▶はい』を震える指で押し込もうとして……して…………

「………………。

 や、やっぱり明日でいいかなー、うん」

 日和った。


「べ、別に今日渡してとは言われてないし。

 今直ぐじゃなくっても、明日でもよくって。

 それこそ明後日だって、一週間後だって変わらないし?」

 ね?

 誰に言い訳して同意を求めているかは定かじゃないが、言いようのない罪悪感と、独特の安堵感がない交ぜになって冷や汗が止まらない。


 そんな心の動きに気付かないフリをして、ブリキの兵隊のように片足を軸にくるりと180度回転。

 鎖錠さんちの玄関から離れようとした瞬間、

「のぎゅわっ!?」

 ドアが勢い良く開いて、背中をしたたかに打ち付けた。

 そのまま廊下と熱烈なキス。うぎゃぁ。


「いったぁ……」

 打ち付けた鼻を涙目で撫でる。

 絶対赤くなってるよ。鼻血出てない? 大丈夫?


 人んちの前で10分も20分も右往左往してたらこんなこともあるか。完全に僕が悪いし、なんならまんま不審者。

 なので、咎める気はないが、相手は気になる。


 鎖錠さん? 鎖錠さん母? それとも、☆3最高レアリティのスーツのお兄さん?

 扉に向けてお尻を突き出す、四つん這いの情けない体勢のまま、肩越しに顔だけ後ろを向かせてドアを開けた人を確認し――は? と声が零れた。

 目を限界まで見開く。痛いほどに。

 それほどまでに信じられなかった。


「あれ? 

 兄さんじゃん。なにやってるの人んちの前で。

 お尻なんか突き出してさ。

 ストーキング? 蹴っ飛ばして欲しいの?」


 雪原のような銀髪を煌めかせた不肖の妹。

 幼さの残るキョトンとした顔立ちは間違いなく妹のモノで。

 最高レアリティどころか実装すらされていなかったバグキャラに絶句していると、「そーい」という気の抜けた掛け声と共に、妹の尖ったパンプスがお尻に突き刺さった。

 いた――ッ!?

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