第四話 エルンスト・リンドブルムの独白


 時間をくれとは言ったものの、ヴァニタスの発した事実は私たちの胸に深く突き刺さった。

 子供の戯言だと笑い飛ばすことも、はぐらかして誤魔化すこともできなかった。

 ……心当たりがあったからだ。


 ヴァニタス。

 私たちの息子ヴァニー。


 幼い頃のヴァニーはそれはもう目に入れても痛くないほど可愛くて仕方なかった。

 初めての子供。

 父親として、侯爵家当主として模範を示さなければと、まだ言葉も話せない頃から考え続けては、ラヴィニアに『力が入りすぎていますよ』とたしなめられた。


 優しく聡明であり自慢の息子。

 領民からの評判もよく、困っている者がいれば手を差し伸べられる他人に配慮のできる子だった。


 そんなヴァニーはいつしか変わってしまった。

 周りの者に横暴に当たり散らしては暴言を吐いて傷つけた。

 自分の思い通りになる奴隷を求め、その娘たちに鬱憤うっぷんを晴らすかのように暴力を振るった。


 そんな態度に周囲からは腫れ物のように扱われ、誰からも避けられるようになる。

 次第に暴力はエスカレートし、ついには私たちもヴァニーに逆らえなくなっていた。


 ヴァニーの変遷に一番ショックを受けたのはラヴィニアだ。


 彼女は昔のヴァニーを忘れられないでいる。


「いつか、いつか戻ってくれます。あの家族想いで優しかったあの頃のように。……エル、わたし駄目なの。毎朝あの子が、ヴァニーが、昔のように元気にお母さんと呼んでくれていた日々を忘れられないの」


 ラヴィニアは過去に生きていた。


 私も同じだった。

 いつかヴァニーは前までの優しい子に戻ってくれる。

 そんな有り得もしない現実を夢見ていた。

 ヴァニーが及ぼす被害に目を瞑って。


 だが静観するだけだった日々は急変する。


 ヴァニーが奴隷の少女たちを連れて出掛けた先で、底なし沼ともいわれる沼に落ちたという。


 あの慎重で誰も信用しなくなっていたヴァニーが沼に?

 にわかには信じ難いことだが、運ばれてきたヴァニーの衰弱具合に私たちは大いに慌てた。


 すぐにドミニク医師を呼ぶ。

 しかし、かの名医の診断でも原因はわからず、熱は一向に高まるばかり。

 突然の事態に私たちは状況を飲み込めないでいた。


 結論から言おう。


 高熱を出した日――――ヴァニーは死んだ。

 正確には死して蘇ったのだ。

 呼吸は止まり、短い時間だがドミニク医師の診断では確実に心臓は止まっていた。


 あの日、あの時、私たちの名を弱々しく呼んでいたあの子は……もういない。

 体温とは思えない熱を宿した手を最期の時まで握ってやることが精一杯だった。


「僕は……貴方たちの息子であるヴァニタス・リンドブルムではない」


 そうだな。

 君はヴァニーじゃない。


 ヴァニーは私たちの目を真っ直ぐと見て話しかけてくれることはない。


 感情を顕にして物に、奴隷たちに怒りをぶつけない日はない。


 君は違う。


 佇まいは堂々として決して目を逸らさない。

 深淵の如き漆黒の瞳はヴァニーの内に秘めた脆さを宿した瞳ではなかった。

 引き込まれそうな抗いがたい引力を宿した瞳。


「ラヴィニア……ヴァニタスともう一度話し合おう」

 

「ヴァニーちゃんと……?」


 拭えない現実に直面し泣きはらすラヴィニアを支える。


 話さなければ、ヴァニーの内側に巣食う彼と。


 憔悴しきったラヴィニアには酷でもいずれ相対しなければならないことなのだから。


「ヴァニーちゃんはあの時もう……いなくなってしまったのね」


 哀しそうに呟くラヴィニアに掛けられる言葉を持ち合わせていなかった。

 それがどうしようもなく歯痒かった。

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