澱みの底

 友子はしっかりと両手を廻して愛しい男の体を抱きしめた。

 刑務所に入って少し肉付きの良かった体はほっそりと引き締まっていて、厚い胸板に顔を埋めるとその心臓の鼓動を聞くかのように、深く、ただ、深くしっかりと耳を押し当てた。やがて、英二もその両腕を廻して友子をしっかりと抱きしめた。

 互いの深い抱擁は数分続き、やがて、互いに顔を見つめ合う。久しぶりに見る互いの顔はところどこどに年齢を感じさせたが、そんなことは気にならなかった。会えなかった分の寂しさや愛しさが込み上げてきて、最初は浅く、やがて深いキスをして2人は再会を確かめ合った。


「ごめんなさい、2年は来ないはずだったのだけど・・・。どうしても居ても立って入れなくて・・・」


 キスを終えて抱きしあったままの友子が涙を見せる、それを愛しく片手て撫でながら英二は愛しい人の頭へとキスをした。あの頃と変わらないリンスの良い香りが薫ってくる。そのぬくもりは暖かくて愛おしくて、さらに抱きしめる手に力を入れた。


「い、痛いよ、英二」


「ごめん」


「でも、嬉しいの、痛くていいからもっと抱きしめて」


 友子はそう泣き笑いをみせて英二へ廻した両手に力を込めた。英二もまた力をしっかりと込めると互いの匂いさえも逃がさぬほどに、しっかりと溶け合ったのだった。


 始まりは6年前だ。


 英二が大学に入学しアパートに入居して住み始めてすぐにのこと、壁一枚を隔てて聞こえてくる女のすすり泣く声と男の罵声、そして殴るような音が聞こえたのちに、女の嬌声が聞こえてくる。やがて、果てた嬌声が聞こえ終わると、玄関の扉が乱暴に閉まって男の歩く足音が聞こえ、その足音が遠ざかると女のすすり泣く声がするのだった。

 生活音であるからのようにそれは良く聞こえてきた。

 たまに廊下ですれ違う女はOLのようで働きに出ていた。水商売でも無さそうで、綺麗な顔立ちだ。相手の男は暴力団員のような風体で刺青こそなかったが堅気の仕事をしているようには見えない。壁一枚から聞こえてくる会話から、男は女のヒモのようで、金をせびり、意に添わなければ殴りつけ、蹴りつけ、そして犯す。最低な人間であることは確かだった。

 小泉のお婆さんに言わせれば4年前に彼女が入居してから入りびたるようになったそうだ。

 その年の暮れのこと、長袖のTシャツ一枚で廊下に座り込んでいる女を見た。ぐったりとして顔の左を真っ赤に腫らした女は、白い息を吐きながら眼を瞑って寒さに耐えていた。顔は全体的に赤く熱があることは明白だ。


「入ってください」


 それが女、友子と英二の出会いだった。腕を引っ張り室内に入れると立つこともできないフラフラの友子を自分のベッドに寝かせて世話を焼く、隣の部屋の壁からは別の女の嬌声と男の笑い声が聞こえてきていた。


 それが縁だったのだ。


 やがて友子は英二の優しさに依存するようになり、英二もまた友子を助けているという優越感に依存した。肉体同士の相性も良かったのも手を貸しただろう。そこから更に互いの存在が心の支えとなり、深みへはまるように濃密な1年を過ごして行くと、やがて決定的な事件が起こった。

 

 友子が男とその取り巻きによって蹂躙しつくされた翌朝、階段下で倒れているところを小泉の老婆に見つけられて救急車で病院へと担ぎ込まれた。友子は搬送中に誰にも、特に英二にだけは絶対に言わないでとしきりに付き添っていた小泉老婆にうわ言のように繰り返した。数日して退院した友子は二度と子供が産めない体になり果て、そしてそれを泣きながらに英二に土下座をして詫びたのだった。男は姿を隠す様に消していたが、しばらくすると再び友子の元を訪れるようになる。


「もし、あんたたちが助けてほしいなら、力を貸すよ」


 小泉のお婆さんは2人を呼び寄せた自室でそう言って両手を組んだ。

 互いに離れられぬほどまでになっていた2人にとっては願ってもいない申し出だった。警察にも相談できず、そして、男の身の回りに何がいるのか、まったく分からない状況ではどうしようもない。捕まっても出てくる恐れがある。その報復も恐ろしかった。


 「殺してしまうしかない」


 安直だが実直な考えでもあった。

 計画を考え付いた時、友子は貴方の人生がめちゃくちゃになってしまうと、やめるように説得したが、友子が辱めを受けていた声を一晩中、歯を食いしばって聞き、耐えていた英二にはこの決意と行為そのものが一種の贖罪でもあったのだ。そして小泉とも話をした末に3人の決意は固まる。小泉がそれに加担したのは、かつて自分も男によって人生を滅茶苦茶にされたからにほかならないからであった。


 そして計画は実行された。


 小泉が朝の散歩を終えて階段の近くにあるプランターの花を世話していると、朝方まで飲んでちょうど帰ってきた男がアパートの階段を上がっていった。すかさずスマホで男が帰ってきたことを2人に知らせると英二部屋の玄関を開けて友子が薄着で出て慌てて戻るところを男に見せる。するとそれを見た男は激高した、すぐに玄関前に来ると、待ち構えていた英二が男を思いっきり外へと蹴り飛ばして廊下の鉄柵に当てて大きな音を響かせた。立ち上がった男が英二の胸倉を掴んで殴りつけるまで待ち、そののちに揉み合うように階段近くまで男と移動したところで、精一杯の力を込めて階段の下へと。派手な音が響いてから小泉が叫び声をわざとらしく上げ、英二の部屋に籠っていた友子は玄関から出ると、一目散に走って男のところまで行き、胸元に縋りつくようにしながら、男の反応を伺った。心音は微弱ながらあったが、すでにこと切れているようでピクリとも動かなかった。


 計画は成功し世間が忘れ去る頃に2人は再会した。


 再会は服役後の2年後との約束であったが友子は待つことが出来なかった。愛しさの募る日々に耐え切ることができなかったが、もう、どうでもよいことだ。穢れや罪の沼の底に沈んだ2人を気にするものなどいないのだから。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

澱み 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ