第56話

  最終章


 二〇一二年某月火曜日。

 ニューヨーク市のマンハッタンはしよこうさんらんとしていた。

 かくやくたるきゆう窿りゆうのもと『あの日』と同様にマンハッタンの湾岸のがいを腰痛でびようとなった老婆ハンナ・イグレシアスは襤褸ぼろ襤褸ぼろで極彩色の無人の乳母車をおしながら散歩をしていた。そうろうとあるくハンナばあさんの背後から隣人の人妻が肉体をあせでせんしやくさせながらランニングしてきた。人妻が「ハンナばあちゃんゴッド・ブレス・ユー」といいハンナばあさんをおいこそうとしただった。ハンナばあさんは唐突に『せつない気分』になった。『ゴッド』という言葉にせきりよううつぼつとなったのだ。『ゴッド』だって。なにかとてもいとおしい名前だな。ハンナばあさんが「ちょっとおまち」というとげんなるがんぼうの人妻はてきちよくして顔面のあせをぬぐいかえりみた。ハンナばあさんは「『ゴッド』って『だれ』かね」と尋問する。人妻は両手を腰部にあてて虚空を仰視し沈思黙考する。人妻はかえりみてこたえる。「さあ」と。ハンナばあさんはいう。いわく「なにかとても大切なものをなくした気分になるんだが」と。ふたたび千思万考した人妻はこたえた。いわく「わたしもそうよ。でもそれってしかたのなかったことだという気持ちがするの」と。人妻はかんとしながらてのひらをふってランニングを再開した。ハンナばあさんはふたたび襤褸ぼろ襤褸ぼろの乳母車をおしながら散歩をつづけた。午前八時四六分四〇秒のことだった。摩天楼のしつするマンハッタンの丁字路でたちどまったハンナばあさんは昨年の『九一一』世界同時多発テロで崩壊したツインタワーの方角をはるかした。神様みたいにでかいとハンナばあさんがおもっていたツインタワーはたるれきすら撤去されて記念碑が設置されていた。

 ハンナはしばらく記念碑の方角を凝視した。

 ハンナはまた散歩をつづけた。

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