　九（く）頭（ず）龍（りゆう）かなえは意識が朦（もう）朧（ろう）とする。

　なにがおこっているんだろう。なんで一鬼はいないんだろう。そもそも『神様はなんでこんな仕打ちをするんだろう』と。やがて武藤山の下方に位置するくだんの実家の廃（はい）墟（きよ）のなかから匍（ほ）匐（ふく）前進して滑（ぬらり）瓢（ひよん）と一鬼があらわれた。満面の笑顔の一鬼は右手に亡父や母親とともに松島湾で撮影した家族写真をかかげていた。九（く）頭（ず）龍（りゆう）かなえは「破（ば）家（か）」と咆（ほう）哮（こう）して階段をくだってゆこうとする。爾（じ）時（じ）武藤氏や隣人たちが卍（まんじ）巴（ともえ）となって九（く）頭（ず）龍（りゆう）かなえの肉体を雁（がん）字（じ）搦（がら）めにして防（ぼう）禦（ぎよ）した。九（く）頭（ず）龍（りゆう）かなえは「一鬼はやくこっちへきなさい」と絶叫する。天（てん）真（しん）爛（らん）漫（まん）なる笑顔の一鬼はようやく遁（とん）走（そう）しはじめる。爾（じ）時（じ）澎（ほう）湃（はい）たる轟（ごう）音（おん）と芬（ふん）芬（ぷん）たる悪臭とともに神松島市内に津波が猛襲してきた。彊（きよう）梁（りよう）なる津波は四（し）衢（く）八（はち）街（がい）の家屋という家屋を呑（どん）噬（ぜい）して瓦（が）礫（れき）の団塊となってながれてくる。魁（かい）偉（い）なる土砂を包（ほう）裹（か）した津波は沖合から牽（けん）引（いん）してきた巨船や磅（ほう）礴（はく）たる東北の大地から褫（ち）奪（だつ）したまるごとのマンションといった兇（きよう）器（き）をひしめきあわせ一鬼へと驀（ばく）進（しん）してくる。各地の阡（せん）陌（ぱく）で分岐しながら瓦（が）礫（れき）と死骸をはこんでながれてくる津波がかなたにみえる状態で一鬼は莞（かん）爾（じ）として武藤山へと疾駆してくる。これならばまにあう。九（く）頭（ず）龍（りゆう）かなえが猛烈なる安（あん）堵（ど）とともに気分が昂（こう）揚（よう）したときだった。あ。とかなえがおもう間隙に一鬼は手（て）許（もと）からおとしてしまった家族写真をひろわんとして蹲（そん）踞（きよ）した。