　そこでわたくしは『神』について勉強いたしました。　

　神は全知全能であり人類を愛していらっしゃる。がときに大洪水をおこしときに酒池肉林の国家を殲（せん）滅（めつ）し最終的には人間を審判して世界を破滅なさるというのです。一（いつ）家（か）団（だん）欒（らん）の家庭を喪失し陰（いん）陰（いん）滅（めつ）滅（めつ）たる感慨であったわたくしはおもいました。『神のせいだ。神のせいでわたしの家族は死んだんだ』と。可（お）笑（か）しなことに当時のわたくしはそれでも『神』をしんじていたのです。やがて『神を憎悪』しながらわたくしは糊（こ）口（こう）をしのぐためにくだんの教会のオルガン弾きにならんと蹶（けつ）起（き）いたしました。満足なる教育も享受できなかったわたくしは藝（げい）をみがいて生活するしかありませんでした。某日の弥（み）撒（さ）に教会で『主よ人の望みの喜びよ』を弾いていたときでした。酩（めい）酊（てい）した浮浪者が一冊のペーパーバックをかかげて教会に闖（ちん）入（にゆう）してきた。とおもったらこんなふうにさけんだのです。『ツァラトゥストラはおっしゃった。神は死んだのだと』と。わたくしは衝撃をうけながらオルガンを弾きつづけました。『神は死んだのだ』。なんてうつくしい言葉でしょう。弥（み）撒（さ）がおわるとわたくしは教会の界（かい）隈（わい）で泥酔していたくだんの浮浪者をみつけて恁（いん）麼（も）の言葉がニーチェの著作に揮（き）毫（ごう）してあるとしりました。わたくしは爾（じ）来（らい）図書館にかよって『無神論』者の著作を漁（ぎよ）撈（ろう）することになりました。ニーチェを劈（へき）頭（とう）としてサルトルやカミュやのちにはドーキンスといった輓（ばん）近（きん）の著作まで渉（しよう）猟（りよう）いたしました。天動説が地動説に敗（はい）衄（じく）した瞬間でした。『神は存在しない』『天国も地獄も存在しない』『『聖書』は出（で）鱈（たら）目（め）だ』。なぜこれほど単純明快なる真実に気付かなかったのでしょうか。真実の雷（らい）霆（てい）をうけたわたくしは教会から遯（とん）竄（ざん）してマンハッタンのレストランの皿洗いをはじめました。わたくしは四十年間真面目に皿をあらいつづけたのです。わたくしはしあわせでした。