　ハンナは耄（もう）碌（ろく）していたが死ぬのはこわかった。

　怵（じゆつ）惕（てき）惻（そく）隠（いん）したハンナばあさんはこばしりになり人妻の彳（てき）亍（ちよく）している丁字路へむかったのちにおなじ方角を仰視した。ツインタワーの北棟の百階あたりから煙霧が聳（しよう）立（りつ）している。ハンナばあさんは觳（こく）觫（そく）とする。世界のおわりだ。おれはここで死ぬのか。アメリカはここで死ぬのかと。人妻は「飛行機よ。飛行機が激突したの」とハンナばあさんに説明する。煙（えん）燄（えん）天にみなぎるツインタワーの上階からは無（む）辜（こ）の人間が墜落してくる。ハンナばあさんはただでさえ髐（きよう）骨（こつ）の足腰が痙（けい）攣（れん）し淋（りん）漓（り）と失禁したのちにうごけなくなった。やがてマンハッタン中の轣（れき）轆（ろく）の消防車（しや）輌（りよう）が嘯（しよう）聚（しゆ）されて消防隊員たちが北棟のなかへと邁（まい）進（しん）しはじめた。午前九時二分五九秒。ツインタワーの南棟につぎの巨大なる旅客機が激突した。南棟の八十階あたりが澎（ほう）湃（はい）と爆発し焱（えん）燚（いつ）たる火炎とともに黯（あん）黮（たん）たる黒煙があがってゆく。ハンナばあさんは祈（き）禱（とう）した。生涯で一度も真摯に『神をしんじたことのない』ハンナばあさんは全身全霊で『神にいのった』。極彩色の乳母車を抛（ほう）擲（てき）し跪（き）拝（はい）するかたちで両手をくんで頭（とう）顱（ろ）を撓（しな）垂（だ）れたハンナばあさんはさけんだ。「神様おねげえだ。おれを地獄におとしてくれてもいい。どうかあのひとたちをおまもりください。アメリカをおまもりください。基（き）督（りすと）教（きよう）徒（と）をおまもりください」と。中枢箇所を攻撃されたツインタワー南棟が崩壊し澎（ほう）湃（はい）と瓦（が）礫（れき）が墜落して一帯が砂（さ）塵（じん）の颶（ぐ）風（ふう）に囲（い）繞（じよう）されるなかハンナばあさんは祈（き）禱（とう）しつづけた。救急隊や巨万の隣人たちが「破（ば）家（か）野郎。はやくにげるんだ」などと讒（ざん）謗（ぼう）して遯（とん）竄（ざん）するなかハンナばあさんは祈（き）禱（とう）しつづけた。「神様。われわれをお救いください」と。爾（じ）時（じ）ハンナばあさんの界（かい）隈（わい）の煙霧が螺（ら）旋（せん）状（じよう）に消滅してゆき穹（きゆう）窿（りゆう）から七色の光（こう）芒（ぼう）がとどいてきた。なにものかの荘厳ながら慈悲と愛情の横（おう）溢（いつ）した嚠（りゆう）喨（りよう）たるこえがきこえてくる。