6人目 『引き留められたらいいんだけれど』

 とんとん、と手に持ったペンの先端で机の上に開かれた手帳のページ上の一ヶ所を何度も叩く。

 そこにはカレンダーではあと二週間となった日付に印が付けてある。


「はぁ……」


 その日付を見ては溜め息をつく。

 そんなことをもう何度も繰り返してきた。

 その日が来るまでに何とかしなきゃ、って…………ううん、違う。私が一番やりたいことは決まっている。


「でも、そんなことできるわけないじゃん……」


『行かないで』、と。

 たったの一言、それを告げるだけでいいのに。

 でも、だからこそ。その一言にかかる重みがどれだけのものかということも理解している。


「だって、勝手なわがままだもん」


 それはあまりにも勝手な、私のエゴと独占欲の塊の一言。

 それを告げれば彼はきっと私のその一言を受け入れてくれるだろう。それを受け入れたらどうなるか、なんてことを彼が理解していないはずがない。でも、それを彼なら実行してしまうだろう。

 だからこそ、だ。私のこの言葉は発せられるべきではない。


 しかし、それを理解することと感情を納得させることはまったく別の話なのだから困ったものだ。

 どうにかして気持ちを誤魔化すか、何かするかして事実から目を逸らすか。

 そうしないといけないとは思いながらもどうすれば実行まで移せるのかがわからない。


「あーあ。私ってこんなにめんどくさい女なんだなぁ……」




 結局、同じことを悩みに悩んで事前に実行に移すことはできなかった。


 そして、今目の前には言葉を伝えたい相手がいる。

 言葉は伝えられなくても、と思って用意してきた贈物もわたせずじまい。

 それなのに、別れの時間が近づいている。


 それを意識してしまったからだろう。

 張り詰めた緊張の糸が一瞬だけ緩んでしまった。


「…………引き留められたらよかったんだけどね」


 運の良いことに、思わず私の口からこぼれ出た言葉ちょうど流れたアナウンスと周囲の喧騒がかき消してくれた。

 それでも、何か言ったということは伝わってしまったのか何を言ったのかと聞き返されてしまう。


「んーん、なんでもないよ。いってらっしゃいって言っただけ」


 私はちゃんと笑えているだろうか。

 私はちゃんと誤魔化せているのだろうか。


 そんな考えだけに集中していられるのは幸運なことだろう。

 それ以外のことを考えてしまえばきっと、さっきの言葉をもう一度、今度ははっきりと口に出してしまうと直感でわかる。


 そんな私のことなど知ってか知らずか、彼はいつも通りに笑う。


「えっ、ちょ……ちょっと、どうしたの?」


 その笑顔のまま私にすぐ触れられる距離まで近づくと、少し言葉を呟いたかと思えば私が何か言う前に離れてそのまま振り返らずに行ってしまった。


「何がちゃんと帰ってくるから待ってて、よ。それが言えるなら先に教えてよ……ほんっと、バカなんだから。用意してた物もこっそり持っていくし……」


 ついさっきまではちゃんと笑えるかを気にしていたというのに、今はにやけるのを堪えられているかを気にしてしまっている。


「あーあ。私ってこんなに単純で、惚れやすい女だったんだなぁ」


 あそこまで言って待たせるんだから、帰ってきたらちゃんと責任は取ってくれるんだよね?

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