第59話 頭痛にはバファリンとワーファリン

「君、山崎君じゃないかな」

「あ、池田さん、お久しぶりです」

 エレベーターを待つ暁に語りかけてきたのは秘書課の池田であった。

「君、ちょっと時間ある?」

「はい大丈夫です」


 早朝から営業している社員食堂も午後5時近くになり二人の他に利用者はいなかった。混んでいる時はがやがやとして大きな声で語り合う社員食堂も、がらんとし

 た空席だけの時間では、声をひそめても良く響いた。


「君は北関東担当から、都内の小売店担当になったそうだね」

「はい北関東の時は池田さんにいろいろ教わり、とても勉強になりました」


「君それは皮肉かね、ボクは君に悪いことをしてしまったと思っているよ、君に何も教えないまま、後を任せてしまったからね」


「そんなことはありません」

「君がどれほど苦労したか、ボクは分かっているよ。君も感じたと思うけどあの地区は、担当した者にしか分からない難しいところだからね。君が次の担当になると聞いた時ボクは、ようやくここから抜け出せると、内心ほっとしたね。

 でもその後、都内を回ってみたら、都内の難しさは北関東の比ではなかったね、たくさん売れているところはやっぱり、誰かが苦労しているってことを教わったね」


 池田の言葉は以外だった。秘書課に移動になり取締役の近くにいる池田はもっと、尊大な人物かと思っていた。しかし3年ぶりに会ってみると池田は会社を憂い、謙虚に後輩の暁に過去を詫びた。


「実はボクがあの地区を任されてい3年間に書いた報告書が今、ボクの机の中にあるよ」

「どういう意味ですか?」


「その報告書は全部、前任の課長の机の中で、上に行くこともなく、眠ってたんだよ」

「次長も部長も池田さんの報告書を見てくれなかった、と言うことですか?」


「前任の課長が退職した時、残された書類の処理をボクがしたんだけど、その中には上の人には見せられない書類がいっぱいあって、シュレッダーに放り込んだんだけど、その中にボクが書いた報告書もあってね。読み返してみると確かに、本来自分で解決すべきことを、会社のせいにしているように書いてあったね、もっと上の人に読まれなくて良かったと思いましたよ」


「課長が池田さんのために、課長のところで留めてくれたのですね」

「そうだと思うね、もし課長がそれをそのまま上に上げていたら、ボクはここにはいれなかったと思うね」


「秘書課の中でも報告書は書くのですか?」

「秘書課はね、報告書は書かないんだよ、自分の考えを書面で残してはいけないんだよ」


「どうしてですか?」

「秘書課の人間は取締役の行動を知っているよね、取締役の行動はすなわち会社の動きだよね、もし取締役の動きと違うことが報告書に書かれていたら、取締役の言動が嘘だと言っているのと同じでしょ。

 取締役会の議事録は法律で定められているから残すけど、その場に秘書が入ることは絶対にないことだよ」


「全部の取締役がそうなんですか?」

「ボクは黒田常務の担当だけど、多分他の取締役の担当もそうだと思うね」


「担当は取締役毎に違うんですか?」

「そうだよ、だから秘書課にはたくさん人がいて、それぞれ違うことをやっているんだよ」


「池田さんはどういうことをしてるのですか?」

「移動の手段、航空券の確保、ホテルの予約、会議場の設営、などスケジュール調整がほとんどだね」

「外部の人と会ったりはしないのですか?」

「常務が不在の時、常務の代わりに他の部署の人と接触することはあるけど、会議の際の同席や、社外の人との会議、接待などはもっと上の秘書がやるから、ボクくらいの秘書はもっぱら雑務処理の小間使いだね」


「会長や社長とも会うんですか?」


「会長にも社長にもまだ、会ったことがありません。担当している黒田常務とも、話を交わしたことは2~3回しかありません」


 暁が会長を見たのは入社式の日、檀上で訓示を述べる伊藤会長を畏まって聞いた時一度だけであった。その後見たとすればテレビのニュースで見るだけで、社外の人と全く同じであった。

 秘書課とは、体を使って雑務の処理をする、営業部と変わらないところであった。

 むしろ緊張に晒されることの多い秘書課の方が、精神的にも肉体的にも、より過酷な仕事であるように思えた。


 ☆☆☆☆


「暁、また頭が痛いのか、この前はお前にシャンプーを教えてもらったから、今日はオレがいい頭痛薬を教えてやるな、アスピリンを飲んでみろ、良く効くぞ」


「頭が痛くて変になったのはお前の方だろ、アスピリンは50年も前からある大衆薬だ、知らないヤツなんかいる訳ないだろ。

 それにアスピリンは日本では『バファリン』って言うんだ。同じ薬だけどな」


「なんだ知ってたのか、恥かいちゃったな」

「よくいうな、厚顔のお前に恥なんか無縁だろ」


「お前んとこの偉いヤツを見ろ、いなくなったらとたんにJALの株価が上がったわ、それでも平気でテレビに出てるんだからな、あれを面の皮が厚いって言うんだ」


「伊藤さんのことか?」

「どうしたんだ、何かあったのか?昨日まで伊藤淳二って呼び捨てにしてたのに、伊藤さんだってよ、笑っちゃうな」


「オレは心を入れ替えたんだ、オレんとこの会社は、課長も部長も秘書課の人たちも立派な人ばっかりだ。だからオレは安心して付いていくことにした。


「黒田でも付いていくのか」

「黒田常務には池田さんと言う立派な秘書が付いてるから、絶対に安心だ」


「黒田ってのはフェミニンからの出戻りだろ、JALから出戻った伊藤と気が合う訳だ」

「これ以上伊藤さんと黒田さんのことを言ったら、オレは本当に許さんからな」

「お前やっぱり変だな、ワーファリンでも飲んで早く寝てしまえ」


「ワーファリンは血液をサラサラにする薬だ。お前の頭の血の巡りをよくするには、バファリンとワーファリンの両方飲んでも駄目みたいだな」



















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