第57話 北浜と芝浦の朝

山一証券大阪支店の桑水流は、法人営業部の担当になった。

法人営業部は証券会社にとって最も重要な部署の一つで、ことに山一証券は、主幹事となっていた企業が4大証券会社の中でも最も多い500社以上あり、法人の山一とも呼ばれていた。

法人顧客に対して山一証券は、他社より有利な利回りを保証することで、一任勘定顧客を獲得していた。

一任勘定とは顧客から資金を預かり、銘柄、売買の別、価格、数量の一切を、証券会社の責任によって行うことを言う。


高利回りを保証した場合、株価の推移によっては顧客に損失を与えることになり、例え損失が発生しても、顧客に対し、保証の義務を負う。

大口顧客には巨額の損失となることもあり、場合によっては、うるさい顧客には損失分を補填することもあった。あるいは、先延ばしにして株価の回復を待つという手段を用いたり、決算期の異なる企業に、後日に高金利で買い戻しを約束する、いわゆる「飛ばし」を行うこともあった。


桑水流が大阪支店に赴任したころ証券界は香港を発端とした、いわゆるブラックマンデーに見舞われ、世界中の株価が急落した時であった。

米国ダウ平均株価は10月19日の1日だけで22%下落した。

東京市場も3,836円(14,9%)の下落を記録した。

中でも法人顧客が多い山一証券は一任勘定取引が仇となり、多額の損失を抱えることとなった。


桑水流を福岡の出張所から、3段階上の大阪支店の課長に抜擢したのは、福岡支店長代理から大阪支店長代理となった望月であった。望月は本社課長時代から法人顧客獲得に奔走し、実績を上げていた。しかし株価急落により望月は優良法人顧客に対し、損失分を補填する策に出た。一方で一般法人顧客には先送りかあるいは「飛ばし」もやむを得ない状況になっていた。


桑水流に与えられた使命は、補填を受けられない一般法人顧客に、違法と知りながら、飛ばしを要求することであった。

「オレは飛ばしをするために、望月に呼ばれたのか、どうしてオレを選んだのだ」と思いながらも使命を果たさんと、必死に書類を書き終えた時には、北浜は朝になっていた。


☆☆☆☆


暁はある団地のカネボウチエーンの看板を下げた薬局に入ってみた。最近はドラッグストアに客が流れ、薬局の客は減る一方である。

この団地の薬局も御多分に洩れず、客はほとんどいなかった。


「昔はカネボウさんの美容部員の人も、毎週来てくれたんですけど、うちみたいな店には来てくれなくなりましたね」と店主は言った。

カネボウチエーンストアの契約をした店には、看板のほか、月に数日、美容部員が派遣されていた。


美容部員の派遣は販社の管轄で、ホームプロダクツの暁には店主に対しとやかく言える立場ではないが、この店が契約に定められただけの売り上げがないのは明らかであった。おそらく販社も売り上げ不足を理由に、美容部員の派遣を中止したのだろう。


かっては町の薬局も処方薬と化粧品と言う2枚看板を持ち、安定した業種と言われていた。

この店も店主は薬剤師の資格を持ち、店の奥にガラスで仕切られた調剤室があった。

しかし、調剤薬局は医薬分業が確立して以来、調剤専門薬局は病院の近くと駅の近くに集中し、化粧品は大手スーパーやドラッグストアなど大型店に取られ、いわゆる町の薬局はコンビニに転向したり、あるいは廃業したりするなど、店の数も減る一方である。


「昔、スーパーで買った毛染めでかぶれた人が『いい薬はないですか』と言って来たことがありましてね、たまたまフェミニンの人がいて、私に『副腎皮質ホルモンを配合した軟膏はありませんか?』と聞いたんですよ。そこで「フルコート軟膏」をお渡ししたんですが、やっぱり毛染め専門の会社の人は良く知ってますね、私も薬剤師ですけど、そこまでは知りませんでした」


「その人のかぶれは治ったのですか?」

「三日くらい経って『すっかり良くなりました』と言って来ましたよ。本当は化粧品屋にもスーパーにも、ちゃんと説明できる人を置かないと駄目なんでしょうね」


暁は、これと同じようなことを、カネボウの会社内で聞いたことがあった。


カネボウが「カネボウフアッションカラー」を発売して間もないころ、あるカネボウチエーン店で今回のようなかぶれ事故があった。

その時、店主もカネボウの美容部員もかぶれに対する知識がなく、近くの皮膚科の病院も休みだったこともあり、対処に困っていたところにフェミニンの美容部員が「これを塗って、明日皮膚科を受診して下さい」と言って、ベトネベート軟膏をバッグから取りだし、客に渡した。

翌日、皮膚科の医師が処方してくれたのは、ベトネベート軟膏であった。


この話をフェミニンの小倉に聞いてみたところ、フェミニンでは全社員に毛染めによるかぶれの対処法を教えていて、例え他のメーカーの社員に対してであっても、

正しい知識を広める努力をしているという。


カネボウでは、このような教育はされなかった。売ることには熱心だが、売った後にも責任を負うという面では、カネボウに比べ、はるかに小さいフェミニンに完全に負けていた。

このことをぜひ会社の上層部にも知ってもらわねばと、分厚い報告書を書き終えた時には、芝浦は朝になっていた。


* 毛染めによるかぶれとは、毛染めに配合されている「パラフェニレンジアミン

  」と言う染料によって起きることがあります。メーカーによる違いではなく、ど 

  のメーカーでも同じです。

  一般的にはかゆみとジクジクとした炎症が起きます。3~4日で完治します。

  かぶれを防ぐため、メーカーではパッチテストを推奨しています。


* フルコート軟膏は田辺製薬(現田辺三菱製薬)の製品です。

  ベトネベート軟膏は第一製薬(現第一三共ヘルスケア)の製品です。

  どちらも病院で処方される他、一般の薬局でも入手できます。




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