第43話 スッチー任せの無責任
「この絵は何を画いたのかしら?」
「そうね不思議な絵ね、でも迫力はあるわ」
「こっちの絵は分かり易いわね、整ってるわ」
「でも綺麗に見せ過ぎよ、写真と同じじゃない」
「お母さんの好みではどっちがいいの?」
「そうね、こっちかしら」
「私も同じ、やっぱりこっちよ、迫力があって生き生きとしてるわ」
「でもお金を払って買う気になる?」
「お金の問題じゃないでしょ」
「それは間違いよ、評価の基準はいろいろあるけど、高く売れる絵がいい絵なのよ。
だから学生は学校買い上げを目指すのでしょ」
春と巌の絵は、志乃と楓の厳しい批評を受けた。どっちが画いた絵が「迫力がある」言われたのか不明であるが、とにかく春と巌の絵は、府中デビューを果たした。
◇◇◇
「おい、JBL って、100万円もするのか、それが二つ要るんだろ、そしたら200万もかかるじゃねえか。一体誰がこんなのを買うんだ」
「それはJBL4343っていう高級なヤツだから、しょうがないな、お前にはもっと安いので十分だ、こっちのJBL4321は30万だ、これならお前でも買えるだろ」
「だけどよ、それも二つ要るんだろ、そしたら60万じゃねえか。買える訳ねえだろ、お前に付いてきて損しちゃったな、責任取らすからな」
「お前も技術屋だろ、スピーカーくらい自分で作ればいいじゃないか」
「こんなもの作れる訳ないだろ」
「バカだとは聞いてたけど、お前は本当にバカだな」
「誰がオレのことをバカだって言ったんだ、オレはもう許さねえからな」
「あのな、鉄を溶かしてゼロから作るんじゃないぞ、秋葉原に行ってみろ、パイオニアとか、コーラルとか、フォステクスとか、いっぱい売ってるわ、そいつを箱にいれたら立派なスピーカーの出来上がりだ。
「箱はどうするんだ」
「長岡鉄男って人がいて。いっぱい本を出してるから見ればいいじゃないか。そしたらお前みたいなバカでも分かると思うな」
「バカは余計だって言ってるだろ、だけどよそれを作っても、AMPとか、プレイヤーとか要るだろ、お前が出してくれるのか?」
「お前んとこも少ないとは思うけど、ボーナスが出るんだろ」
「まあ少しは出るだろうな」
「じゃあそれで買えばいいじゃないか、そしたらキャンディーズだって聞けるだろ」「キャンディーズばっかり聞いてたって飽きるだろ、百恵ちゃんだって聞きたいし、
青江三奈だって聞きたくなるだろ、そん時はどうしてくれるんだ」
「しょうがねえな、オレもボーナスが出たらサ柏原芳江の「春なのに」くらい買って
やるわ」
「春ったらよ、この前下手くそな絵を置いて、さっさと大阪に帰っちまったじゃねえか」
「あんな春なんか問題外だ、柏原芳恵は大阪出身だし『春なのに』と『お元気ですか』は名曲だぞ」
「ん?………お元気ですか?………変だな聞いたことがあるような気がするけど思いだせないな…………ま、いいか、それよりもそもそもお前んとこは、ボーナスが出るのか?」
「組合が頑張ってるし、相手が黒田だから簡単に出すと思うな」
「黒田って初めて聞く名前だな」
「黒田ってのはフェミニンに行ってたけど、役に立たなくて追い返えされたヤツだ、
おかげで、フェミニンのヤツらは喜んでるけど、こっちは大迷惑だ」
「だけどよカネボウには組合がいっぱいあるんだろ、お前はどこに所属してるんだ?」
「どこだか忘れちまったな、だけど一番でっかいのが全繊同盟だから、何とかなるだろ」
「お前ってよ、ほんとにいい加減なヤツだな、自分の所属も分かんねえのか呆れたな」
「そういうお前はどうなんだ?日航にだって組合がいっぱいあるんだろ、お前はどこに所属してるか分かってんのか」
「分かるる訳ねえだろ、オレのとこもスッチーの組合とパーサーの組合が頑張ってるから、そのうち何とかなるだろ」
「ん?『そのうち何とかなるだろう』? まるで無責任男の植木等の歌みたいだな、スッチーとパーサー任せで、パイロットは一体、何をやってんだ」
「全日空は知らんけど、日航では機長は管理職なんだ、だから副操縦士もパーサーもスッチーも、機長の命令に従わなくちゃならないんだ」
「変な会社だな、機内でもバラバラじゃねえか、空中分解しそうだな、危なくて乗ってられねえな」
「ちょっと待てよ、オレの会社で空中分解したことなんか一度もないぞ、一体どこの話だ」
「お前の会社じゃないけど、忘れて貰っちゃ困るから、オレが代わりに話すから、よーく聞いておけ」
ここで日本で起きた「空中分解事故」の概略に付いて記すこととする。
1966年2月4日に起きたボーイング727の東京湾墜落事故についてはすでに述べた通リである。
今日はその直後に起きた連続事故について述べることする。
2月4日の墜落事故が起きたその翌月、1966年3月4日、羽田空港でまたも痛ましい事故が起きた。
この年は異常気象により3月2日から4日にかけて、全国的に濃霧に襲われ、陸海空の交通は麻痺状態であった。事故当日には羽田空港も16時ごろから濃霧に包まれ、国内線は全て運行を見合わせていた。
羽田に到着する国際線は板付(現福岡空港)へのダイハード(代替着陸)か、出発を見合わせていた。
そのころ(日本時間14時16分)香港啓徳空港をカナダ太平洋航空の402便ダグラスDC-8 が羽田空港に向けて離陸していた。
19時08分に着陸に向け、降下したが、高度14,000フイート(720m)で空中待機して、霧が晴れるのを待つこととなった。
機長は15分以内に天候が回復しない場合、台北松山空港に着陸することを決定した。
19時42分、機長はその旨を機内アナウンスで乗客に通知した。
20時05分、管制官は視界が3,000フイート(900m)に回復したことを伝えた。
402便は一度断念した羽田空港C滑走路に向け、着陸態勢に入った。
900メートル先に見えたのは帯状の霧だった。霧の層の下にぼんやりと進入灯が見えた。目視では進入灯は確認できなかった。
確認可能な高度は現在高度より、数メートル下にあった。機長は目視可能な高度まで降下させた。
管制官は「高度が低い、アップせよ」と通知したが、すでに402便は目視可能な高度まで降下して、主脚が進入灯に接触した後だった。402便は護岸に衝突し、誘導灯をなぎ倒し、全車輪と4基のエンジンをばらまきながら、滑走路上を滑り続けた。
静止した時は、崩れたビルのように、瓦礫となった機体のパーツが重なりあっていた。
この事故により、乗務員10名全員と乗客乗客54名、合わせて64名が犠牲になり、奇跡的に8名が救出された。
現実に起きた事実に「もし」と言っても事実は変えられない、しかし敢えて言う。
もし、もう1分早く台北へ向けて飛んでいたら、もしもう1メートル高度が高ければ。
この事故の場合、霧が晴れるのがあと、一分遅ければ、402便が事故に見舞われることはなかった。判断が遅れて事故に至ることが多いが、この事故は自然を恨むしかない。犠牲者のために言葉を探すとすれば、「あなたたちのおかげで私たちは、自然を侮った人間の愚をかさ知ることが出来ました…どうぞやすらかにお眠り下さい」
しかし、自然を侮り事故に至らしめた重大事件がその翌日に起きた。
サンフランシスコを起点とし、ホノルル、羽田を経由して、香港に向かうBOAC(英国海外航空)911便、ボーイング707が太平洋上を飛行していた。
911便は3月4日、16時45分に羽田に着陸予定であった。しかし羽田空港を包んでいた濃霧はまだ去っていなかった、911便は板付(福岡空港)にダイハード(代替着陸)を
し、翌日3月5日 12時43分、羽田空港に到着した。
13時58分、911便は前日の事故機の残骸が残るC滑走路を離陸した。
乗員、乗客はどんな気持ちで事故機の残骸を見たのだろう。
機長はすでに提出していた伊豆大島経由をして、香港に向かう計器飛行(IFR)ではなく、富士山上空へ直行する有視界飛行(VFR)を要求した。管制官は要求を受理した。
そして911便は「さようなら」の言葉を残し、富士山上空に向かって上昇して行った。
14時15分ごろ、911便は御殿場市から富士山へ向かう高度15,000フイート(4,600m)を飛行していた。
そして富士山上空で突如、右翼が吹き飛び、機体はバラバラになって富士山麓に散らばった。
旅客機の飛行高度としては非常に低い高度であったため、多くの人が落下していく機体を見ていた。ある人は「自衛隊の演習かと思った」と語り、ある人はその一部始終をカメラに収めていた。
事故の原因はこの飛行高度にあった。
富士山のような形の山は、垂直に上昇する乱気流が発生することがあり、富士山上空では5,000m以下の飛行は極めて危険とされていた。
高度4,600mを飛行していた911便が、乱気流によって空中分解したのは確実であった。
ではなぜ敢えて危険な高度を飛行したのだろうか。
先ず911便の機長は33歳、副操縦士同じく33歳、航空機関士31歳と若いクルーであった(現在は航空機関士が搭乗する旅客機は存在しない)
また、当時の太平洋路線は各航空会社が熾烈な観光客獲得競争をしていた。
911便の乗客の多くがアメリカのある会社の販売キャンペーンの当選者で、アジア旅行は初めての人が多かった。
以上を踏まえ、なぜ空中分解の可能性のある危険な飛行に至ったのか、を考えてみたい。
* 先ず取り上げなければならないのは、最短距離を選択したことである。
20時間の遅れを取り戻し、時間を守ることを是としたのではないだろうか。
前日の霧で予定外の福岡空港へ飛ばざるを得ず、20時間の遅れを取り戻そうし
たクルーに心情的には理解できるところもある。しかし、時間と安全を計る
余裕はなかったのだろうか。
* 次に挙げたいのは、観光旅行客にサービスとして、美しい富士山を見せるため
の一挙としたのではないだろうか。
観光客獲得は航空会社の重要課題である。そこに若いクルーの功名心はなか
ったであろうか。
早さも能率も利益も安全に勝るはずがありません。安全に確実に送り届けるのが運輸業であり、安全を無視して栄えることはありません。
この事故以後航空各社は富士山を避け、大きく南に迂回するようになった。
この年1966年はこれまでに取り上げた8件の他、全日空機松山沖墜落事故など、航空機の事故の多い年であった。
だがいたずらに事故の恐怖を煽るつもりはありません。事実、事故に学び数々の改善が行われ、そして私たちは今、安心して航空機を利用できています。こうして安心して乗れるのも過去の事故に学んだ結果であり、対策にあたった方々には、深くお礼を申し上げたいと思います。しかし安全の追求に終わりはありません。
事故が根絶し、二度と悲惨な事故が起きないように願ってやみません。
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