第42話 JBLを聞いて二人でお茶を

 山発産業に派遣されていた市川は本社に帰り、管理調整部長となった。管理調整部とは、名目上は取締役会に次ぐ決定機関であるが、些細な問題の処理が主な仕事で、実際は、定年まで無事に過ごすことが目的の部であった。閑職に追いやられた

市川には、1年間後に訪れる役員解任が待っていた。


 黒田には、労務担当常務の席が与えられた。当時カネボウには各事業所毎に組合があり、労使は激しく対立していた。労務担当となった者は常に、辞表を懐に業務に取り組んでいた。黒田が果たして辞表を提出せずに1年間過ごせるか、カネボウの労使間の対立は一層厳しさを増していた。


 ◇◇◇


「山崎さんボクは今度、都内の薬系問屋の担当になりました。またどこかで会えたらいいですね」


 暁はフェミニンの小倉から、担当地区の移動を知らされた。小倉の言った薬系問屋とは、一般薬店向けの家庭薬を扱う問屋のことで、フェミニンの山発産業は古くから付き合いがあった。

 しかし、カネボウホームプロダクツとは取引先のない業界であった。薬品問屋には他に新薬問屋と言うのもあるが、こちらは病院向けであり、化粧品とは関係のない業界であった。多分、小倉と会うことはもうないのだろう。

 ほんの短い期間ではあったが、小倉のように付き合えた人は他にいなかった。


 北関東地区を担当したこの1年間、仕事のほぼすべてを、小倉に教わりながら過ごしていた。

 同じホテルに泊まり、一緒に飲み、スーパーの棚の整理をし、業界の情報を教えて貰い、時にはゴルフの練習に行ったこともあった。


 この1年の間に「カネボウフアッションカラー」というヘアカラーが発売されたがそれは制度品の販社が扱う品で、暁と小倉の関係が変わることはなかった。

 小倉の後、フェミニンのどんな人が担当になるのだろう、誰がなるのかは分からないが小倉のように付き合えるのだろうか。暁は戦友を失ったような寂しさを感じた。


 ◇◇◇


「この前、お前の弟の絵を取りに来た姉ちゃんがいたな、3人いたけどあれは誰なんだ」

「3人の姉ちゃんだって?、一人は美大生だけど、あとは他人の嫁さんと子どもだろ」


「だけどよ、3人とも可愛いかったじゃねえか。こんなボロアパートに、姉ちゃんが3人も來ること自態、異常事態だろ」

「お前が整備なんかしてるから、異常事態が起きるんだ、東京湾に墜ちたのもお前のせいだ」


「分かっちゃいねえな、墜ちたのは全日空の727だ、日航にも727はあるけど完璧に直してるぞ」

「分かってないのはお前の方だ、大阪では『直す』っていうのは『元の場所に戻す』って意味だ」


「どっちだっていいけど、お前に頼まれたって安い航空券はとってやんないからな」

「もともとお前になんか、航空券をとって下さいなんて言う訳ないだろ」


「オレの親父が働いていた中島プロペラの娘は『とって下さい』を『とってやんない』と言ってたらしいぞ」


「とってやんない?誰にとってやるんだ」

「だからよ、ラーメン屋に行ったとするだろ、そしたら胡椒が欲しい時『そこにある胡椒をとってやんない」って言うんだ」


「それじゃあ、意味が逆だろ、気狂いの片桐が逆噴射させたようなものだな」

「中島プロペラが作ってるのは船のスクリューだから、逆回転させても大丈夫だ、

 沈没することはないわ」


「バカやろ、プロペラもスクリューも意味は「ネジ込む」だろ、お前は何をネジ込むつもりだ」

「親父は中島プロペラの娘にネジ込んで、妊ましてしまった、と前に言っただろ」

「オレがそんなこと会社で言ったら、オレは即刻首だろうな。お前ももっと上品な言葉を使えよ」


「お前の会社がそんなに上品だとは思えないけどな。

 なにが『For beautiful human life』だ笑っちゃうな」


「お前んとこなんかリゾッチャだろ、リゾッチャってよ。一体なんの意味だ?」

「リゾートホテルに泊まってお茶を飲む、に決まってるだろ」


「そんなつまらない意味か、木村佳乃さんもよくあんなCMに出たもんだな」

「バカ言え、木村佳乃さんは資生堂のCM にも出てるじゃねえか、お前んとこなんか相手にしてねえわ」


「しょうがねえな、今日のところは勘弁してやるわ、だけどよ、上品にしてる方がもてるぞ、オレの知ってる小倉ってヤツは、なんの取り柄もないくせに結構もててるぞ」

「なにが小倉だ、どうせお前の知り合いだから堀之内の仲間だろ、この前のパピリオとフェミニンの姉ちゃんの時みたいなことになるんだろ、聞かなくたって分かるわ」


「あんときのフェミニンの彼氏が小倉だ、秋には結婚するんだってよ、残念だったな」

「知ってたんならなんで早く言わねえんだ、無駄金使っちゃってよ」


「じゃあ金がかからなくて、かっこよく見えるとこあるけど知りたくねえか、お前には無理だと思うけどな」

「聞いてみなきゃ分からんだろ言ってみろよ」


 小倉はフェミニンの美容部員の彼女とこの秋、結婚することになっていた。同じ会社どうしだが付き合うことになったのは、彼女が小倉が結構音楽通であることを知ったからだった。

 小倉は参宮橋の安アパートに住んでいたが、それほど遠くない西新宿1丁目に、豊明ビルと言う建物があった。建物自体は目立たない普通のオフイスビルだが、1階が全フロア、音響メーカーJBLのショールームになっていた。


 JBLはアメリカのスピーカーメーカーで、当時全盛期を迎えていたオーディオブームの中でも特にマニアの間では人気の高い、高級スピーカーであった。ことにジャズフアンにとっては垂涎の的であった。

 JBLを輸入していたの山水電気と言う、これまた有名な高級AMPメーカーであった。

 場所柄、西新宿のビル街に勤めるビジネスマンが立ち寄って、名曲に聞きほれた後、仕事に向かう光景がよく見られた。


 ある日曜日、小倉がJBLの試聴室にいる時、派遣先の小田急デパートに向かう彼女

 が外を歩いているのを発見し、彼女を呼び止め、ジャズピアニスト、バド・パウエルの「二人でお茶を」と言う曲を聞いた。約4分ほどの短い曲だが彼女はバド・パウエルのピアノに魅了された。

 その後も彼女と「二人でお茶を」聞くようになり、実際にお茶を飲む仲になった。


「どうだ、お前もJBLを聞いてみたいと思わないか、

「聞いてやってもいいけどよ、オレはジャズなんか知らねえぞ」


「大丈夫だ、お前が好きなキャンディーズだって聞けるし、リゾッチャよりお茶も美味いぞ」

「しゃあねえな、来週にでも行ってみるか」

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