第14話 ギャンブルライン
「暁、お前は卒業したらどこの会社に入るの?お母さんは潰れない大きい会社がいいと思うわ」
「オレもそう思ってるよ、入るとすればカネボウか、サントリーのどっちかだな」
「カネボウもサントリーも、どっちもい大きい会社だから、潰れないと思うわ、でも伊藤忠からも内定をもらってるんでしょ」
「親父の安宅産業だって大きい会社だったけど、潰れて伊藤忠に吸収されたじゃないか、だからオレは総合商社には行かないよ」
巌の兄、山崎曉は半年後に、大阪市立大学の卒業を控えていた。
暁は内定をもらった数社の中から、カネボウとサントリーに絞り、カネボウを選んだ。
父が勤めていた安宅産業も大企業だったが、カナダの油田の失敗で、まさかと思われる倒産をして世間を驚かせた。
暁は安宅産業よりさらに大きいカネボウを選び、母も安心した。
カネボウは暁が言った通リ大企業だった。明治の中頃、全国の綿糸織物工場を集約し、近代的技術と、国策に合致した経営方針により、繊維業界トップの地位にあった。
さらに、住宅、食品、医薬品など。生活の全てをカネボウブランドで覆うことができる総合企業であった。
中でも戦後化繊事業の一部から生まれた化粧品は、資生堂に次ぐ業界2位のシェアを持っていた。
カネボウに入社した暁は希望通リ、化粧品部門の宣伝部に配属された。
入社式の日、暁は芝浦の本社ビルを眺めた。カネボウ本社ビルのガラスはキラキラと輝き、三角形の本社ビルは東京湾に浮かぶ帆船のように見えた、あの海の向こうには親父が死んだカナダがある。暁は東京湾を茜色に染め、西に沈む夕陽に向かって誓った。
「親父安心してくれ、オレはカネボウに入ったよ、お袋も巌もオレが面倒を見るよ」
当時カネボウ化粧品は、女優の夏目雅子さんと言う人が、広告の顔 を務めていた。
夏目雅子さんの人気は凄まじく、水着姿のポスターが化粧品店から盗まれるのは、社会現象であった。
暁はポスター盗難に、自社商品の人気と自身の宣伝部の名刺に、ある意味誇りさえ感じた。
大田区蒲田に小さなアパートを借り、壁に夏目雅子さんのポスターを貼って毎日眺めた。
いつしか夏目雅子さんは暁の心の支えとなった。父が亡くなって以来、抑えていた異性への想いは、ポスターの中で微笑む彼女が、自分の恋人であるかのような錯覚に陥った。
宣伝部にいればいつかは会えるだろうと、淡い期待を抱きながら、業務に励んだ。
しかし、そんな期待が実現することなど、ありえないのが実社会である。
妄想と期待のずれの処理に暁は、堀之内に通うようになった。
堀之内は蒲田からJR上野東京ラインに乗ると一駅の、川崎駅に近いところにあり、10分ほどで行くことができた。
堀之内のソープに何度か通っているうちに、馴染みの女性ができた。
ソープ嬢との恋は予想もしていなかったが、彼女の存在は次第に暁の生活の一部となった。
彼女の出勤は週4日、正午から6時までであった。他に水曜日は全休で、その日は朝から、二人で淫らな遊びに耽った。
彼女は川崎の賃貸マンションに住み、暁のアパートより広く快適であった。
やがて暁は蒲田のアパートを引き払い、彼女と同棲することとなった。
1年前までは大阪の文化住宅で、弟の巌と同じ部屋に寝ていた。巌が画いた絵に囲まれ、「兄貴、乾いていない絵具に埃が付くから、そーっと動いてくれ」と言われながらこっそり動く毎日だった。
それが今は居候ではあるがマンションに住み、性の処理さえできる相手に巡りあった。
人が環境の変化に順応するのは自然なことで、変化に順応できない者は淘汰される。暁は見事に順応した。
1か月も経たないうちに、紐の風格さえ現れてきた。
このままカネボウを退職すれば、立派な紐である。だが暁は父との誓いを守り、会社を辞めるなど、微塵も考えなかった。
しかし、紐ではなくても日常の暮らしの中に、その生き方が現れるものである。
暁は過去に抑えてきた全てを経験しようと思い、先ずは競馬を考えた。
川崎から千葉県船橋市まで、東京をぐるりと取り囲むJR武蔵野線がある。
途中の府中、浦和などに競馬、競輪、競艇があり、別名ギャンブルラインとも言う。
1年前まではバイトで学費を稼ぎ、安い焼酎を飲むのが一番の贅沢であった。
しかし今は給料も入り、家賃は女もちと言う恵まれた環境である。
競馬くらいやって当然と思った。
ある日、暁は川崎で武蔵野線に乗り、府中に向かった。
府中の東京競馬場は前年に発売された松任谷由実のヒット曲「中央フリーウエイ」でも歌われ、競馬をやらない人でも知っていた。
競馬場の門をくぐり場内に入るとパドックと言う所があった。人込みをかき分け中に入ると、調教師に引かれた馬が見えた。
「これがサラブレットか…」とその美しい肢体に魅せられた。
その中にひときわ美しく見える馬がいた。それは「トウショウボーイ」と言う馬であった。
暁は新聞を買い、指定席に座った。新馬戦と言うことで、どの馬にも同じくらい○印が付いていた。
暁はトウショウボーイを軸に、5つを組み合わせ、馬券を買った。
ゲートが開き各馬は一斉に芝生を駆けた。
熱狂する観衆の前を先頭で走り抜け、左手を高く突き上げたのは、トウショウボーイの騎手であった。
暁の肩に外れ馬券がヒラヒラと落ちてきた。
暁は思った。オレはこいつらとは違う、オレはトウショウボーイが勝つことを予見できた。有り金を全部つぎ込んでいたら、お袋にマンションを買ってやれたのに。
◇◇◇
キムラクリーニングに、戸山団地店を都に明け渡す日が来た。
「この店にはお世話になったわね」
「あれからもう20年か、早いもんだな」
「あら、こんなのが落ちてたわ、ちゃんと掃除したつもりなのに」
「それ私のクレヨンよ、どこにあったの?」
「この機械の下よ、あの時は見つけられなかったのに」
志乃が見つけたのは楓が子どものころ使っていた、赤いクレヨンだった。
「楓はこのクレヨンでずいぶん落書きをしたわね、お母さんは消すのが大変だったのよ」
「記念に何か書いておこうか」
「やめなさい、次に入った人が困るわよ」
「どんな人が入るんだろ」
「分かんないけど、流行るといいわね」
「大丈夫よ、白優舍になんか負けないと思うわ」
「この店には亡くなったお父さんと、お母さんの魂が住みついているからね」
志乃と夫の村上、娘の楓、志乃の弟の春樹の4人は20年間お世話になった店に別れをつげた。
春樹はキムラクリーニング調布店を任されるまで、自身の将来を考える男ではなかった。親の脛をかじり、新宿の街をふらつく毎日だった。ただカメラが趣味で知り合った女を撮ると、プロ並みの腕を見せた。
その春樹も40を過ぎ、キムラクリーニング調布店の店長になったこともあり、やる気が出てきたと見た志乃と義兄の村上は、春樹に結婚を勧めた。
村上は志乃と結婚する前、 山一証券の経理部にいた。山一証券の会計監査法人は中央青山会計監査と言う事務所で山一証券の他、トヨタ、ソニー、カネボウなどを顧客とする、4大会計監査法人の一つであった。
その中央青山会計の事務員に、早紀と言う女性がいた。
早紀は函館の出身で、父は元神戸の星電社と言う大型家電量販店に勤めていた。
早紀の父が函館を旅行した時、棒二森屋と言うデパートに勤めていた母と知り合い、遠距離恋愛を経て結婚し、早紀が生まれた。
その後星電社は倒産し、一家は母の実家がある函館の湯の川と言う、温泉のある町に移転し、父は北斗電気と言う会社に再就職した。
北斗電気は竹内八郎と言う人が戦前に、函館市地蔵町と言う所で興した会社で、
一時はNEBA(日本電気大型店協会)に加盟する北海道で最大の家電量販店であった。
しかし早紀の父が定年退職した後、北斗電気も倒産した。
札幌の大学を卒業した早紀は、カネボウ化粧品の販社に就職した。札幌のデパートの化粧品売り場にいたころ、東京に本社のある会社の社員と知り合い、結婚した。
転勤で東京に住むことになった二人だったが、夫の浮気で結婚生活は終わった。
一人で生きることになった早紀は、中央会計事務所に就職した。その後、中央会計は青山会計事務所と合併し、早紀は中央青山会計の社員となった。
調布に住んでいた早紀は、キムラクリーニングを利用するうちに、志乃と世間話をするようになった。
やがて二人は函館と神戸に共通する記憶があることで、より親しく付き合うようになり早紀と春樹も親しくなった。春樹は早紀と結婚を意識するようになった。
ある日、春樹は早紀をデートに誘った。
「ボクの写真のモデルになって欲しいんだけど、早紀さんの都合のいい日はないですか」
「私で良ければいつでもいいですよ」
◇◇◇
「あまり店は知らないんですけど、早紀さんは何が好きですか?」
「私、札幌ラーメンが食べたいわ」
「ラーメンですか?」
「ええ、私は勝負時は札幌ラーメンなんです」
「今日は勝負なんですか?」
「だって脱ぐんでしょ?」
「いや別に……」
結局その日は脱がなかったが、二人は正式に交際することになった。
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