第12話 陣馬茶屋のお人形
「お母ちゃん、電話で言うたやろ、同級の巌君や」
「巌ちゃんか、あんたよう来てくれはったな、こないなとこへ」
「お母ちゃん、巌に明石焼き作ったって」
「そうや、こないな時は明石焼きやったな、忘れとったたわ」」
「あー旨かった、こんな旨いたこ焼きは初めて食ったな」
「なあ巌、言うとるやろ。たこ焼きや無うて、明石焼きや」
「巌ちゃんはどこで生まれはったんや」
「横浜で生まれました」
「そおか、横浜か、ええとこやな」
「お母ちゃん、横浜へ行ったことあるんか」
「行ったこと無うても分かるわ、海のあるとこは皆んなええとこに決まってるわ。
そや、向かいの桑水流さんが海の絵を持ってると言うとったな」
「桑水流さんて誰やったかな?」
「向かいに越して来た人や、八王子から来はってな、こんどその絵を見せてもらうことになっとるんや、あんたらも見せてもろうたらええと思うな」
巌は春の部屋で1枚の絵に目をとめた。
「これは誰を画いたんだ?」
「それは人形や」
「ロシアの人形いう佐伯の絵や」
「佐伯の模写か、オレは春の彼女かと思った」
「彼女なんていてへん、巌はいてるんか?」
「オレもいない、それにこの人形のような人がいる訳ないしな」
「そうかな、いてると思うんやけどな」
「春、お前何を考えてるんだ、それは佐伯が画いた人形の絵の模写だろ、偽物の偽物の偽物だろ、お前は滝川太郎みたいヤツだな」
「あほなこと言わんといてくれ、オレは人を騙したりはせえへん」
「むきになるなよ。それより春、お前も人形じゃなくて生きた人を画かないといかんな」
「オレもそう思ってたとこや、巌はどうなんや?」
「オレは飛び跳ねるような荒々しい絵を画きたいな」
翌朝、汐子ら3人は502号室のブザーを押した。
「桑水流さん、厚かましいて悪いけど、この子らに絵を見せて上げてくれへんか」
「どうぞ上がって下さい。麻衣のおもちゃで散らかっていますが」
「麻衣ちゃんはお人形さんをようけ持ってはるんやな、みて見いこのお人形さん、
春の絵と一緒や」
「ほんまや、本物のロシアの人形や、佐伯もこれを画いたんやろな。
「春、このお人形さんを抱いた麻衣ちゃんをモデルにして、1枚画いてみろよ」」
「そうやな、お願いしてみようかな。巌、お前もその絵が気になるようやな」
「そうなんだよ、凄いと思わないかこの筆使い、もう北斎の絵じゃない。完全に自分のものになってる……この波の絵は誰が画いたんですか?」
「館ヶ丘団地の小夜さんと言う人です。隣に住んでいました」
巌は小夜が画いた神奈川沖浪裏を見て、自分が何を求めていたのか、少し分かったような気がした。
「オレが画きたいのはこういう絵だ」
◇◇◇
新宿のさくらやで買ったカメラにフィルムを詰め、隆司は府中に向かった。
「このフィルムに競争馬の雄姿を残し、競馬をやめよう」と決め、隆司はカメラを人生の転機にしようとした。
府中競馬場のゲートをくぐり、馬場に向かうと右手奥にパドックが見えてきた。
「あ、馬だ」隆司は現実の競争馬を見るのは、今日が始めてであった。
場外馬券売り場で新聞を買い、名前だけは知っていた競争馬が目の前にいた。憧れの大スターが突然現れたような感動に包まれた隆司は、カメラを向けるのも忘れ、しばし呆然と眺めた。
調教師に引かれパドックを歩くサラブレットの中に、ひときわ毛艶のいい1頭がいた。
きりりとした眼差しで、観客を無視するかのような足取りで、真っすぐに歩くその馬は、トウショウボーイトいう名前であった。
隆司は観客席に座りカメラを構えた。だがスタート地点は遥か先で、ファインダーの中の各馬は、マッチ棒の先くらいの大きさにしか見えなかった。
隆司はカメラを諦め肉眼で馬を追った。各馬はぐんぐんと近ずき、コーナーを曲がると隆司の前を過ぎ、ゴールラインを越えた。
鞍上で勝利の拳を突き上げたのは、トウショウボーイの騎手であった。
表彰式が始まり騎手と並んだトウショウボーイを見ると、なぜかじーんと込み上げる不思議な感動に全身を包まれた。。
「オレは馬か離れられないのかも知れない」
隆司の肩に外れ馬券がひらひらと落ちた。
「だがオレは今日で競馬をやめると決めたのだ、忘れよう」と自分を慰め競馬場を後にした。府中駅で新宿行きの電車を待っていると、新宿行きとは反対車線に”高尾山口行き” という電車が入って来た。
「そうだカメラの中のフィルムは未だ1枚しか撮っていない。高尾山に行って風景を撮ろう」
隆司はドアーが閉まりかけた電車に飛び乗った。
高尾山口駅で降りケーブルカーに乗った。
ケーブルカーに乗ったのは初めてだったが、隆司の父親は毎日、ケーブルカーに乗って炭鉱の坑道に入って行った。
隆司は炭鉱の社宅時代を思い出した。貧しいながらも父も母も優しかった。
同じ社宅には友達もいっぱいいた。あの頃はなにをやっても楽しかった。
淡い恋心を抱いた人もいた。あの子らは今、どうしているのだろう。
思えばあの白いマンションに住んでいた学芸大学の人は初恋の人だった。
隆司はケーブルカーに揺られながら、次々と湧き出す思い出に浸った。
ケーブルカーを降りると散歩道の途中に、陣馬茶屋と言う蕎麦屋兼喫茶店のような店があった。
店の奥には開きっぱなしの引き戸があり、自由に出入りができた。外は広い庭になっていて、小学校で使うような木の椅子が10数個置いてあった。中には器を持って外で飲んだり、食べたりしている人もいた。
みんなのんびりとして、時間を気にする人はいないように見えた。
生憎見えなかったが、天気が良ければ丹沢の峰も見えるはずである。
隆司は空いてる椅子に腰を降ろし、5枚ほどシャッターを切った。
「すみません、ここは空いていますか?」と子どもを連れた女性が隆司の近くの椅子を指さした。
「山の絵を画きに来たのですが、今日は山は見えませんね」
「絵を画くんですか。ボクは写真を撮りにきました。まだ素人ですが」
「私も素人です、この子と二人で府中の先生に絵を習っています」
「ボクもさっきまで府中にいました。馬を撮ろうと思ったのですが、上手く撮れませんでした」
「先生のお父さんも馬の絵を画いていたんですよ、府中の家で見せてもらいました」
「先生のお父さんは馬の関係者ですか?」
「今は亡くなりましたが、元は北海道の炭鉱にいたそうです」
「本当ですか?ボクの父も炭鉱にいました。釧路の太平洋炭鉱という所です」
「先生のお父さんの炭鉱はどこか分かりませんが、とにかく北海道です」
「先生の家にまだ馬の絵はあるんですか?」
「絵はアメリカの牧場にあると思います」
洞爺丸の事故を免れた幸運の馬は、太平洋の彼方にいた。
「おじちゃん、このお人形さんの写真を撮って、麻衣ちゃんに送るの」と彼女が連れていた女の子が言った。
「可愛いお人形さんだね、出来たらすぐに送るよ」と言い隆司はシャッターを切った。
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