第9話 消えた銀鱗

 オレはあの炭鉱で起きた事故を直前に回避でき、幸運にも助かった。もしあの事故がもう5分早く起きていたら、オレは今この場にいなかったと思う。オレはもちろん、娘の志乃も弟の春樹もこの世に生を賜ることはなかっただろう。

 志乃と春樹が生まれた時、オレは生きていることの喜びに浸った。もう望むものは何もない、与えてくれるならこの子らに与えてくれ、と心から思った。


 願いは届き、ニシンは豊漁、御殿も建てた。恵まれすぎる運はまだ続いた。

 湯の川の旅館で地団駄を踏んだあの時は、運の悪さを嘆いた。だがそれも違った。

 幸運はまだ続いていた。

 もしあの時、洞爺丸に乗っていたら、生きていれる筈がない。

 与えられた運に感謝せずにはいられなかった。


 だが人が作った世に永遠は存在しない。永遠を見た者も存在しない。

 いつかは終わる。

 あれほど賑わった岩内の海からニシンは消え、銀鱗が再び跳ねることはなかった。


 志乃の父は、寸前のところで洞爺丸の悲劇に合わずに済んだ。だがその日からニシンはどこかへ行ってしまった。ニシン御殿は空き家となり、町から人影は消えた。

 ニシンを追うように志乃の父は急逝した。


 母は5歳になった志乃と2歳の春樹を連れ、頼る人もないまま東京へ向かった。

 手には、父が東京の展覧会に届けられなかった油絵が、しっかりと握られていた。

 一家は落合に小さなアパートを借りた。アパートの近くに聖母病院があった。

 春樹が皮膚病でよく通った。皮膚病を北海道ではガンベと言っていた。


 聖母病院はキリスト教の病院で、各科に外国人の看護婦がいた。彼女たちはナイチンゲールのような白衣とナースキャプを着けていた。

 札幌の女学校で英語の教育を受けた母は、ナースと彼女の夫が暮らす家に招かれた。彼女の家は外国人専用に建てられた、白い壁の豪華な家だった。


 彼女の夫はアメリカの牧場の息子で、馬の近くに住みたいという希望があり、府中

 に住んでいると言った。

 彼女の家に、父が画いた日高牧場の競走馬の絵を飾ってもらうことになった。

 展覧会には届かなかったが父の絵は、府中の豪華な外国人の居間に飾られることとなった。


 ◇◇◇


 隆司は今日も新宿南口の、場外馬券売り場に行った。

「あんた、付いてるみたいだね、オレなんかさっぱりだよ」と話しかけてきたのは先週もここで合った男だった。

「次のレース教えてよ」

「そんなの分かりませんよ」

「しょうがないよな、やっぱり府中に行って、馬を見ないと分かんねえよな」


 男はつぶやくと、持っていた新聞と違う別の新聞を取り出した。

「こっちを買ってたら、当たってたのにな」

 男は一人ごとのようにつぶやいた。だが隆司には男の言葉の意味が分からなかった。

 新聞は2誌も買うことはなかったし、新聞によって予想が違うとも知らなかった。

それに、馬を見てから馬券を買う人がいることも知らなかった。


「馬を見るってどういうことですか?」

 男は呆れたような顔で言った「あんたさっきのレース当てたじゃない、あんた馬を知ってるんでしょ。こんなの誰も分んねえよ」


 隆司が買った馬券はいつもより、配当が多いと思っていた。だがそれはどの新聞にも同じように書いてあると思っていた。

「ほらな、オレはこいつを信用して買ったんだけど、こいつの予想で当たったことがない、今度はあんたの新聞を見て買うよ」


 素人が偶々勝てることもあるが、それはトラックマンが、抑えに推した硬い馬券を買っていたにすぎなかった。

 それでも必ず当たる訳ではない。隆司は運が良かっただけであった。

 案の定、その後のレースでは当たることはなかった。

 ここで次こそ当てようと、のめり込む人もいるが、隆司は基本的にギャンブル好きではなかった。

 もうこれで競馬は止めようと思った。


 新宿東口に来たら日曜日の歩行者天国であった。ここは修学旅行の時、ケチャップでお世話になったあの人に合った所だった。

 同じ場所にあの時と同じテーブルがあった。座ってみると目の前に”さくらや”と言うカメラショップがあった。

 修学旅行のとき同じクラスの中に、リコーオートハーフと言うカメラを持って来た生徒がいた。釧路に帰った後、彼が撮影した写真をもらった女の子たちはみんな、キャーキャーと大喜びだった。


 カメラを持てば女の子にモテるのだなと思った。だがあの頃は貧しくて、カメラを持てるとは思っていなかった。

 今も給料は安いけど、競馬で儲けたお金が少し残っていた。

 テレビでは扇千景さんと言う人が「私にも写せます」と言って宣伝していた。

 扇千景さんは、あの人にちょっと似ているような気がした。


 隆司は思い切ってさくらやに入ってみた。1階はプリントの受付やフィルム売り場でカメラは2階にあった。


「すみません、リコーオートハーフはありますか」

「ありますよ、こちらです」案内されたのは、ハーフサイズ専用のコーナーだった。

他にも何社かのカメラがあったけど、リコーオートハーフよりもっとカメラらしい形をしたのがあった。

「すみません、これはどこの会社ですか」

「オリンパスペンと言って、ハーフサイズの元祖です。リコーオートハーフのような自動巻き上げはありませんが、写りはいいしお勧めできます」


 比べてみるとリコーオートハーフはピカピカ光って、未来的な感じがした。

だけどオリンパスペンは艶消しで、大人らしい恰好をしていた。

どっちにしようか迷ったが、オリンパスペンはリコーオートハーフより、ちょっとだけ安かった。


 隆司はオリンパスペンを持って1階に下りた。フィルムはなにが良いかよく分からなかったけど、コント55号の萩本欽一さんが宣伝していた「サクラカラー100」というフィルムを買った。

「4枚増えて値段は同じ、どっちが得か、よーく考えてみよう」確かこんな宣伝だったと思う。


 隆司はさくらやを出ると喫茶店に入り、買ったばかりのカメラを箱から出してみた。

 新品のカメラはひんやりと冷たく、新品特有の機械の匂いがした。

 さて、このカメラでなにを撮ろうと考えた。

 隆司はここで子供を連れ、キャンバスを持った夫婦に「府中には行かないんですか?」と聞かれたのを思い出した。


 「そうだ府中だ、府中には競馬場がある、競馬で勝った金で買ったカメラだし、競馬卒業記念にちょうどいい、府中に行って競争馬を撮ってみよう」と思った。

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