第8話  茜色に染まる海峡 

「奥さん、この色がよう売れまんな。どないな絵を画いとるんかな」

「私にもよう分らへんけど、春はこの色が好きなんやろな」


「普通は白が一番売れるんやけどな、ほらな白のチューブだけごついやろ」

「ほんまやな、春の絵はきっと普通やないんやろな」


 矢田のおばちゃんは、春が持って帰る絵具は全部、春が使っていると思っていた。

 だが実際は山崎が使ってた。問屋の人が「よく売れる」と言った色はガランス

 という色だった。ガランスは日本では茜色と言う。赤の中にやや黄色みを帯びた暗い赤系の色で夕焼けなどの色に近い。


 山崎はこのガランスを好み、風景にも静物にもガランスの絵具を使用していた。

 実はガランスは色褪せが早く、50年から60年もすると赤みは消えくすんだ暗い赤だけが残ると言われている。

 なので著名な画家にガランスを使う人は、少数である。


 日本人には大正時代に活動した、村山槐太という画家がいた。

 槐太はわずか23歳という若さで亡くなったこともあり、残っている作品はごくわずかである。

 だがその絵のほとんどは赤みが消え、元の作品がどのように画かれていたのか、が研究者の課題となっている。

 槐太が画いた自画像はただ黒っぽく、人の肌にはとても見えない。

 もっとも槐太がこうして研究されるのは、対象物をいかに自分流に捉えたかであり、色使いの問題ではない。

 だが画き方としては一層難しくなる。一般的にはたくさんの色を使う方が楽である。槐太の絵の凄さは色を超えたところにある。


 春と山崎は学校の屋上に上がり、自画像を画いた。

「おい春、オレはこれで終わるぞ」

「山崎君、どないした?」


「いつまで山崎君なんて敬語を使うんだ、巌と呼べ」

「分かったよ巌君」


「イワヲ君じゃねだろイワヲだ。春、お前は神戸の出だよな。オレは横浜だ。どっちも荒くれた街だ。それなのにお前はどっかの坊ちゃんにしか見えないな、お前の親父は何をやってんだ」

「電気屋だよ」

「電気屋かいいな、死ぬことはないだろ」

「死なへんと思うけどな、感電はしよるで」

「バッカやろ、感電で死んでも痛くなんかないだろ、アッハッハハハ」

 と巌は初めて笑った。


「どこに住んでんだ?」

「明舞団地ってとこや」


「団地か羨ましいな、オレも5歳まではマンションに居たってお袋が言ってたけど、オレは全然お覚えちゃいない。オレが知ってるのは我孫子の文化住宅だけだ。

 あっちを見ろ、赤い夕陽が見えるだろ、親父はこの夕陽を見ながら死んだんだ、誰がこんな色を作ったんだ、オレはこの色が憎い……

 ごめんな春、ところでよ、お前に兄貴はいるか?」


「オレはひとりっ子や、兄貴はおらん」

「おっ、初めてオレって言ったな、待ってたぞ。なあ春、お前は親父とお袋をなんて呼んでる?」

「お父ちゃん、お母ちゃんやな、なんでそないなこと聞きよるんや」


「パパ、ママなんていう奴をいっぱい見てきたけど、ろくな奴はいない。

 オレはそんな奴が大嫌いだ。親父を殺した奴はみんなパパ、ママだった

「オレはな、この色が消えてしまうから使ってるんだ、オレも兄貴もお袋も、親父を殺した奴も、みんないなくなってしまうまで、この色を憎み続けるぞ」


 巌が画いた自画像は明石海峡に沈む茜色の夕陽に染まっていた。


 ◇◇◇


 志乃は終戦直後岩内と言う町で生まれた。

 父は元、北海道の炭鉱で通気係員をしていた。通気係と言うのは坑内にガスが残留しないように地上から空気を送り、残留するガスを、地上に排出するパイプを設置する仕事である。

 炭鉱の作業では採炭の現場にいる採炭員と、坑道を掘る掘進、と言う係がいた。

 通気係は採炭と掘進の後方に位置し、比較的安全な仕事であった。

 しかし残留ガスは爆発の危険があり、そのガスを取り除く係員の責任は大きい。

 炭鉱事故で最も多いのは石炭層が落下する落盤事故で。次いで多いのは炭塵爆発という、石炭の微粉末の爆発である。

 採炭現場と掘進現場での動力は圧縮空気を用いる、その圧縮空気を送るのも通気係の仕事であった。


 ある日一番方が入坑中、採炭現場で小さな落盤が起きた。幸い死者も負傷者もなく全員抗外に避難できた。しかし避難するまでに10時間以上かかった。

 炭鉱は、入坑する時被るヘルメットを充電器から外すと、自動的に頭に付いたランプが点灯するようになっていた。また手動で消灯することは絶対にできない。

 つまり、入坑したら、出坑まで点きっ放しである。だがバッテリーの持ちは8時間が限界でそれ以内に出坑しないと暗闇のなかをさ迷うことになる。

 そのため原則として坑内に留まれるのは、6時間以内と定められていた。


 ところがこの事故では避難に10時間を超える時間を要した。

 抗員のほとんどは、真っ暗闇の中を手探りで出口を探した。

 この時間志乃の父は2番方で入坑直前のタイミングであった。


 この炭鉱は事故後、採炭再開まで6か月要した。

 仕事が出来なかった6か月間、鉱員のほとんどは他に仕事を求め、ある者は他の炭鉱へ、ある者は運送荷役と各地に散らばった。


 志乃の父は岩内と言う町で漁業を営む実家に帰った。

 炭鉱が再開するめども立たない8月、日本は終戦を迎えた。

 GHQの調べも終え、炭鉱は再開され多くの抗員は炭鉱の町に戻ってきた。

 しかし志乃の父は岩内に残り、兄の船に乗り、漁業を続けた。

 この地方では春の数か月間、ニシンの漁で賑わっていた。

 ニシン船を持つ漁師は数か月で1年以上食える稼ぎがあった。


 巨万の富を得た漁師の中には、ニシン御殿とまで呼ばれる豪邸を建てる者も現れた。

 志乃の父も1年の半分以上を、遊んで暮らす身分になった。

 そのころ、札幌の女学校を卒業し,岩内の郵便局に勤めていた娘と結婚し、志乃が生まれた。

 志乃の誕生の2年後、弟の春樹が誕生した。


 志乃の母の趣味は絵画で、父も絵を画くようになった。

 ニシンは漁期が短く、絵を勉強する時間はたっぷりとあった。父の腕はメキメキと上達し、展覧会を狙うまでになった。


 1954年(昭和29年)9月、志乃の父は東京の展覧会を目指し、100号の絵を1枚持って国鉄函館本線に乗った。函館本線は函館駅で青函連絡船、洞爺丸に乗せ、青森から先は東北本線となる。


 志乃の父が乗船する日、中心気圧960ミリバールの台風15号が時速100キロのスピードで北上していた。


 台風15号は青森沖を通過し、午後1時、洞爺丸は出航を見合わせた。

 多くの乗客は駅構内で出航の知らせを待っていた。

 金に余裕のあった志乃の父はタクシーで湯の川温泉に向かった。

 午後5時、函館を襲った台風15は通過したかに見えた。

 午後3時30分、客車を積み終え、午後6時30分の出航を知らせた。


 午後6時、停電が復旧し出航のボラが鳴った。


 志乃の父は出航の知らせを温泉の宿のラジオで知った。「失敗した、あのまま駅で待っていたら洞爺丸に乗れたのに」と地団駄を踏んだ。


 午後6時30分、運命の時間、真っ暗な津軽海峡に向け、洞爺丸は青森に向け函館港の岸壁を離れた。

 午後8時、台風15号は過ぎ去るものぞとの勢いで洞爺丸を襲った。

 大波を受け、洞爺丸の船尾の客車積載口から入った水は瞬く間に機関室に侵入した。

 午後8時45分洞爺丸は真っ暗な津軽海峡に沈んだ。


 翌日朝函館近郊七重浜に、船腹を真上に向けた洞爺丸があった。


 死者、行方不明合わせて1155名、生存者159名と言う大惨事であった。

 この時、洞爺丸の他、4隻の連絡船が座礁、転覆し、併せて1400名に及ぶ、死者を出す、タイタニック号に次ぐ史上2番目の海難事故であった。


 涙にくれる遺族の上に、人の業を嘲るような晩夏の朝陽が、ガランスに輝いていた。

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