第7話 カナダに消えた油田

 春のアパートがある三国ヶ丘駅から三つ目に、杉本町と言う駅がある。

 大阪市立大学の最寄り駅で、ここに春の叔母がいた。春の母汐子の姉になるのだが、叔母はここで文房具店を営んでいた。ここは店舗だけで住居は矢田と言う所であった。春はこの叔母を矢田のおばちゃんと呼んでいた。


 春はこれから使う絵具を叔母の店で買おうと思っていたが、叔母の店は文房具と雑貨が主で、本格的な絵画用の品は扱いがなかった。

 ただ取引のある問屋に絵具、溶き油など、絵画用の品を扱う会社があった。

 矢田のおばちゃんが問屋の人と交渉してくれた。


「兄ちゃんとこに絵具はあったかな」

「絵具なら奥さんとこにも、ぺんてるがありますやろ。うちが納めたのやないけど」


「こんなこどもが使うペンテルのクレヨンとちやうで、油絵や」

「油絵でっか、ホルベインとクサカベならありますけどな」


「ホルベインってなんや?」

「絵具の会社や、他にはレンブラントとか言う、外国の会社もあるけど、うちではこれだけやな」


「高校生が使うんやけど、それでええと思うで」

「学生さんでっか、オイルもいりまんな、テレピンとか」


「テレピン言われてもよう分らんわ、聞いてみるな」

「誰が使いはるんでっか?」


「うちの甥が美大に入りよってな、ようけ使うらしいで」

「奥さんとこの甥ですか、ほな安うせなあきまへんな」


「奥さん、他のもうちにしてくれへんかな、クレヨンとかもな、なら安うしまっせ」


 問屋の担当者はクレヨンとか鉛筆などを、他の問屋から自社に切り替えてもらうことを条件に、絵画に必要なものを特価で提供してくれることになった。


 油絵は絵具の他、テレピンオイル、リンシードオイル、ポピーオイル、シッカチーフ、などたくさんの消耗品を必要とする。

 学生にとっては食費を削ってでも、これらの品を購入する必要がある。

 春は矢田のおばちゃんと問屋の好意により、これらの品々を特価というよりも、無償に近い形で提供してもらうことになった。

 契約こそしていないが、事実上のスポンサーであった。

 春は恵まれた高校生活のスタートができた


 春と同じ油絵の教室に山崎という生徒がいた。山崎に父はなく、母と兄の3人で

 我孫子と言う駅の近くに住んでいた。兄は大阪市立大学の学生であった。

 大阪市立大学は春のアパートと同じ三国ヶ丘にあり、我孫子からも歩いて通学できた。


 ある日、二人向かい合い、相手の顔を画く授業があった。入学したばかりで友人と言える仲ではないが、春と山崎がお互いの顔を画くことになった。

 教師は「似顔絵を画くんじゃないぞ、相手の顔から湧いてきた印象を画くんだぞ」と言った。


 山崎はややほわーんとした春の顔を克明に画いた。

 ところが春は山崎の顔からは沈み込んだ、暗い部屋に置かれた彫刻のようにしか感じなかった。

 春は教師に言われた通リ、背景の黒い壁の中に黒い石が沈みこんだように画いた。

 それを見た山崎は「お前オレのことを知ってるんか?」と凄みのある声で言った。


 「まずい、本当のことを画いてしまったので山崎は怒っているのだ」と思った。

 ところが山崎はニタッ笑い、「オレが戦犯の息子だってことを見ぬくとは、大した奴だ、お前とは付き合えるな」と言った。

 春は山崎の言うことが全く理解きなかった。 


 困惑している春に「今日オレの家に来い、一杯飲ましてやる」と言った。

 春は一杯飲ますというのは、酒を飲むということだと分かった。

 だけど酒は飲んだことはないし、飲んだ後山崎が何をしようというのか、恐怖で震えが止まらなくなった。


 だけど行かければ、もっと怖いことが起きそうな気がした。

 その日春は我孫子に住む山崎の家を訪ねた。

 6畳の畳の上に山崎兄弟が座っていた。その前に一升瓶がでんと置いてあった。

 春はやくざの契りを交わす場面を思い出した。


 ついにこの二人の子分にされてしまうのか、と覚悟を決めた。

 すると兄が「安宅産業を知ってるか?オレたちは安宅産業を潰した戦犯の息子だ」と言った。

 春は安宅産業はもちろん、戦犯の意味さえ知らなかった。


「いいかよく聞け、オレたちの親父はカナダの油田で失敗し、安宅産業を潰した責任者の一人だ。親父は詫び文を書いて死んだ。それでも許せないという回りの目が痛かった。

 耐えられなくなってオレたちはここまで逃げてきた。

 だけど一番つらいのは、心では小馬鹿にしてるくせに、顔では笑って本心を隠す奴がいることだ。


 今はお袋の稼ぎでオレたちは、何とか食わしてもらってるけど、こんな金のかかる学校に入ってしまい、お袋には苦労を掛けるばかりだ。

 いっそ死んで親父のとこに行こうかと何度思ったことか」


 山崎の兄はコップの酒をグイと飲み、話を続けた。

「オレが市立大に入ったのも、こいつが美大付属に入ったのも、歩いて行けるからだ。

 オレたちには電車賃だって大金だ。だけど市立大も美大付属もこんなに金のかかる学校だとは思わなかった。安いバイトをしてるけど、せめてこいつの絵具代だけでも稼ぎたい」と言い落ちる涙を拭こうともしなかった。


 安宅産業は大手総合商社の一つだったが、カナダでの油田プラントの失敗で、1977年に倒産消滅した。一部の事業は伊藤忠商事に吸収されたが、山崎の父のような例もたくさんあった。

 高度成長期とバブル景気の間の昭和に起きた、大きな事件の一つである。

 春は入学早々に浮かれ気分を叩きのめされた。だがこの一件で春と山崎は親友になった。


 ⋄⋄⋄


 満開の桜の下でイーゼルを立て、厩舎の競走馬を画く二人の女性がいた。

「ちょっと白い絵具を貸して」

「駄目よ、自分のを使ったら」


「上塗り用の白が切れちゃったの」

「しょうがないわね、今日だけよ」


「何よ、けち!」

「だって競争してんのよ、どっちが先に入選するか、お母さんだからって甘くはしないわよ」


「あ、もう時間よ、小夜さんを待たしちゃ悪いわ」

 二人は未だ乾かないキャンバスを2枚、携行用クリップで挟みバッグに入れた


 厩舎の近くでは小夜と亜未が車で待っていた。

 小夜の車が走りだすと雨が降ってきた。


「先生、濡れなくて良かったですね」

「いつも乗せてもらって助かるわ」


「今日画かれた先生と楓さんの作品も見せてもらえますか?」


「この子がね上塗り用の白を貸してくれないの、だから仕上げは家でするわ」

「何よ、貸したでしょ、それにあの白はマツダよ、レンブラントより高いのよ」


「何言ってるの、絵は腕よ」

「違うわ、それを言うなら絵は感性よ」


「ごめんね小夜さん、こんなとこ見せちゃって」

「私みたいな素人には分かんないわ、二人とも私の先生なんだから」


「先生だなんて、私も素人だし、この子もまだ学生よ」


 八王子の大正天皇陵で知り合って以来、小夜は志乃さんと娘の楓に絵を教わることになった。娘の楓は武蔵野美大の学生であった。


楓に触発されて絵画に目覚めた志乃であったが、志乃には遠い過去から、今を予感させる血が流れていた……


 * ホルベイン、クサカベ、マツダ、は日本の絵具メーカーで、世界中に愛用者が

   います。マツダは練油にポピー(ケシの実)オイルを使用し、やや高価であっ 

   た。品質は各社とも違いはありません。














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