第6話 ハイセイコーとロングエース

「すみません、こちらの店は前からあった店ですか?」

「うちはね、ここにきて半年だけど何か?」


「前にもここにクリーニング屋さんがありましたよね」

「そうだよ前もクリーニング屋だったらしいね」


「前の店の人はどこへ行ったか分かりませんか?」

「さあね、オレには分かんないね、どっかでやってると思うけど」


 隆司がダスターコートのケチャップでお世話になったあの店はどこかに移転して、そこには別のクリーニング店が営業していた。

 店が変わっても利用客にとってはどちらでも良いのだろう、だが隆司は落胆した。

 あの人にお礼をしたいという気持ちの他に、三岸節子の話をしたあの娘と言う人のことがずーっと頭から離れなかった。

 同じ電気メーカーに勤め、偶然にもお世話になったクリーニング店と同じ団地に住むという、それだけの理由で付き合うことになった二人だが、隆司の心はあの美術大学生に惹かれていた。


 隆司と暮らすことになった戸山団地の女性もそんな隆司の心を感じ、二人の関係はわずか1か月で終わった。

 女性はパートを辞め、隆司は新しいアパートを探すことになった。


 あの人は別の場所に移転したのか、あるいは廃業したのか他の店にも聞いてみた。だが知っている人はいなかった。

 隆司が次に住むことになったのは、新宿の成子坂という所だった。

 新宿駅から歩いて行ける距離で、建設中の京王プラザホテルが毎日少しずつ、背が高くなっていくのが見えた。


 成子坂は古いアパートが密集していて、戦後直後のような雰囲気が残っていた。

 隆司が借りたアパートは2階建ての木造で、玄関を開けると廊下で左右に別れ、それぞれ2部屋づつあり、2階も同じ作りで計8部屋あった。炊事場は部屋に付いていたが、トイレは上下階に一つづつあり共同使用だった。

 釧路にいたころ住んでいた社宅も粗末だったが、家族で暮らせる広さと設備はもっと整っていた。


 釧路の社宅、会社の近くの安アパート、戸山団地、そして成子坂、思えば戸山団地は快適な天国のような所だった。

 あの団地にあの美大生と暮らせたら、どんなにか幸せなことか。


 知り合いはいない筈なのに、隆司の部屋のブザーが鳴った。

「毎日新聞ですけど、1ケ月だけとってくれませんか」

「悪いけど新聞は要らないよ」


「スポニチもありますよ」

「スポニチって何ですか?」


「スポーツ日本ですよ、よく当たりますよ」

「何が当たるんですか?」


「競馬ですよ、やらないんですか?」

「競馬はやったことがありません」


「チエッ、」と舌打ちして新聞の勧誘員は出て行った。


 毎日新聞の勧誘員の後、別の新聞勧誘員がやってきた。

「朝日新聞ですけど、3ケ月だけどうですか、最初の1ケ月はただにします」

「すみませんただでも新聞は要りません」

「カンスポもありますよ」


 スポニチがスポーツ日本ならカンスポは、韓国スポーツに違いないと思った。

「韓国語は読めません」


 勧誘員は呆れたような顔をして出て行った。

 隆司は賭け事はしたことがなかったけど、勧誘員との話で新宿駅南口に場外馬券売り場があるのを思い出した。

 日曜日の10時ごろ歩いて新宿南口に行ってみた。


 何か独特な匂いがした。新聞と赤い鉛筆を持っている人がたくさんいた。

 新聞がたくさん売っていて、そこには「よく当たりますよ」と言われたニチスポも売っていた。

 だけどあの勧誘員の顔を思い出し、日スポと刊スポを買うのは止めた。


 近くにいた人が優馬と言う新聞を持って、ニタッと笑った。

 この新聞を見たら自分も当たって、ニタッと笑えるかもしれないと思い、同じ新聞を買ってみた。

 優馬にはハイセイコーと言う名前が大きく載っていた。


 ハイセイコーは11番レースに走る馬だということを知った。

 11番レースの中でもハイセイコーにはたくさん◎印がついていた。

 隆司は◎印の多い順に5と9を選び千円買ってみた。


 財布の中に5-9と書かれた馬券を入れ、新宿東口の喫茶店に入った。

 喫茶店の中にいる人はみんな競馬新聞を持って、テレビを見ていた。

 やがて11番レースが始まり、優馬が◎を付けたハイセイコーが優勝した。

「やっぱりハイセイコーか、しょうがないな」と客が言った。

「5-9じゃ200円しかつかないな」と、あまり嬉しそうな顔ではなかった。


 隆司が買った5-9は1番人気と2番人気の馬で、当たっても配当が少ない組み合わせだった。

 それでも隆司は払った千円が2千円になった。喫茶店のコーヒーとトースト代を払っても、600円のおつりをもらった。


 隆司は翌週の日曜日、また新宿南口の場外馬券売り場に行った。

 その日も同じ優馬を買い、11番レースで◎が多い馬を探した。

 するとロングエースと言う馬に◎印がたくさん付いていた。隆司は先週と同じように◎印の多い順に3-6の馬券を2百円買った。


 そして喫茶店に入り席に着くと店員が「相席をお願いします」と言い、子どもを連れた夫婦を案内した。

 夫婦は世界堂と書かれた油絵用の、大きなキャンバスを持っていた。


 やがて11番レースが始まり、ロングエースが優勝した。

 隆司が買った3-6の馬券は3千円の配当になり、隆司は買った2百円が6千円になった。

 そのころ隆司の給料は1万3千円くらいだった。

 競馬の純益5千6百円は成子坂のアパート代より多かった。


「当てたんですか、凄いですね」と相席した夫婦が話しかけてきた。

「ボクたちは八王子に住んでいます。妻とこの子が絵を始め始めましたので、画材店の世界堂にキャンバスを買いに来ました」と言った。


「八王子ですか、大きなキャンバスを持って大変ですね」

「いいえ、ボクは最近車を買いましてね、だから楽なもんですよ。そのうち高速道路も出来ますし」


「高速道路ができるんですか?」

「今はまだ高井戸までですけどね、そうそう途中の府中には、東京競馬場がありますけど、行くんですか?」


「行ってみたいと思いますが、ボクは車を持っていません」

「電車ですと30分くらいで着くと思います。一度どうですか」


 隆司は油絵を始めたと言った夫婦の言葉に、あの人の面影を重ねた。





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