第5話 大正天皇陵

 隆一と汐子に春の3人が明舞団地に住んで1年経った。

 入居を申請し、空き室が出るまで1年待ち、入居が決まった時には3人は飛び上がって喜んだ。あの憧れだった明舞団地に住むことができ、しかも何と当たったのは15年前、隆一が工事を担当した500号棟であった。

 配線のどこかを探せば、隆一の指紋が残っている筈である。


「こんな素敵な団地に住みたいね」と見上げた5階の窓は今、自分たちのものとなった。500号棟501号室に新しい表札を付けた時、隆一の脳裏を過ったのは、釧路の寒いアパートで息を引き取った母だった。


 息子の春はあの時の自分の歳に近くまでなり、隆一は月日の流れ、人の命、人の運命を操る何かが頭上に舞っているように感じた。

 出来るならこの先も、今日のように舞ってほしいと念じた。


 だが4月になれば春は、大阪の美術大学付属高校に入学する。釧路の潰れそうなアパートよりはましだが、この明舞団地に比べたら遥かに狭いアパートでの一人暮らしが始まる。

 汐子は言った

「春、悪い女が多いよってな、気を付けるんやで」

「大丈夫言うてるやろ、アストロメカニクールなんて行かへんって」


「お母ちゃんはアストロメカニクールのことなんて言うたか?」

「忘れたんか、お父ちゃんと会うたのがアストロメカニクールだって、何度も言うたやないか」


「そうやったな、お父ちゃんは覚えとるかな。それはそうと、お父ちゃんを画いたこの絵はどないするんや」

「この絵はお父ちゃんとちゃうで、これは佐伯祐三の郵便配達夫いう絵の模写や」


「知らんかったな、この絵はお父ちゃんを画いたとばっかり思おとったわ、髭を取ったらお父ちゃんとそっくりや」


「お前たち、そこで何を話してるんだ」

「あ、お父ちゃんいてたんか、知らんかったわ」


「全部聞こえてるぞ、アストロメカニクールだとか何だとか」

「ええ耳しとるな、お父ちゃんには隠されへんな」


「ここにある絵はお父ちゃんとお母ちゃんんが預かっておくよって、お前は勉強して佐伯祐三以上の画家におなり。三国ヶ丘のアパートがいっぱいになったら、ここに持っておいで、いつかはここが、春記念館となる日が来るとええな」


「そうやな、三国ヶ丘に行ったら仁徳天皇陵を画いてみるわ、出来たら送るからな、待っといてな」


 春は4月から大阪府界市三国ヶ丘にアパートを借り、美術大学付属高校に通うことになっている。

 三国ヶ丘はJR阪和線にある仁徳天皇陵古墳の最寄り駅で、春が入学する付属高校にも近い場所である。

 春はここで大阪出身の画家、佐伯祐三を超える画家を目指し新生活を始める。


 ◇◇◇


 隆三と小夜が館ヶ丘団地に暮らして4年経った。団地の尾崎産院で誕生した長女亜未は3歳になった。

 隆三が心配した蒙古斑も消え、たどたどしく話すようになった。

 亜未が生まれた年、レコード界にピンクレディーと言うスーパースターが誕生した。テレビ、ラジヲから、ピンクレディーの歌が聞こえない日がなかった。


 レコードの売り上げはもちろん、文房具、玩具など、子供向けの品にはピンクレディーの二人が写っていた。

 亜未も幼い動きでピンクレディの踊りを真似た。


 よちよちながらも歩き始め、小夜もだんだんと目が離せなくなってきた。

「ねえ、うちも車買わない?」

「車がほしいの?」


「うん、亜未を連れてバスに乗るのは大変なのよ、今日ね都民銀行の人が来て、これを置いて行ったわ」

 小夜が隆三に見せたのは、団地内にある東京都民銀行(現きらぼし銀行)の自動車ローンのパンフレットだった。

「へーえ、こんなに安い金利で買えるんだね、これならうちでも買えるかもね」

「よかったわ、反対されるかと思ったわ」


「反対なんかしないよ、ボクも車は好きだしね」


 当時急速にマイカーの普及が進み、ローンの金利競争が激しかった。

 ディラーローンの他、信販系、銀行系など、各社が独自の購入プランを提供した。

 こうして隆三と小夜は、白いホンダシビックのオーナーになった。

 車を購入後はそれまで団地内で済ませていた買い物も、高尾駅前にオープンした忠実屋に行くなど、行動範囲が一気に広がった。


 また多摩動物公園、秋川渓谷など、多摩地区の名所観光施設巡りを楽しんだ。

 ある日隆三と小夜は亜未を連れ、八王子市長房町にある大正天皇陵を訪れた。

 緑が多い八王子市の中でも、大正天皇陵は高い木々に囲まれ、ひときわ静かで気品を感じるさせる所である。


 大きな鳥居をくぐり正面に進むと、ドーム状に積み上げた御陵が現れ、頭を垂れ、拝みたくなる威厳と慈悲を放ち、見る者を圧倒する。

 観光施設ではないが八王子市八十八景に数えられ、訪れる人は多い。


 三人が訪れた日、イーゼルを立てキャンバスに絵筆を走らせる人がいた。

 その人は鮮やかなタッチで画き上げると、3人に語りかけてきた。

「お嬢ちゃんは絵はお好き?漫画でもいいのよ、書くと楽しいわよ、これはおばちゃんからのプレゼント」と言い、スケッチブックと鉛筆を亜未に持たせた。


 聞くとその人はクリーニング業を営みながら、趣味の絵を画いていると言い、

「私の娘は美大生でどっちが先に入選するか、競ってるのよ、神戸の友達の息子さんが美大付属に入ったので、今度は3人の争いね」と笑った。















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