第2話 舞子海岸の砂 

 神谷隆一は万博開幕から2年後、開幕の日と同じ3月15日1年間の交際を経て汐子と結婚した。

 隆一は25歳、汐子も25歳であった。3年後男児が誕生し、春と名付けた。


 春という名は4年前汐子と梅田で見た映画からとった。2001年宇宙の旅の主役ともいえるコンピューターがハルであった。

 もう一つの理由はやはりコンピューターであった。

 隆一が万博で見たものはコンピューターという存在であった


 隆一が担当したイタリア館も、川島電気が担当したソ連館も、月の石を展示したアメリカ館にも、長い行列ができていた。だが行列を作ってまで月の石を見ても、月からここまで石を運んで来たのがロケットであるのは知っていても、ロケットを動かしているのがコンピューターであることを知っていた人はごくわずかである。

 月の石を見た人のほとんどは、コンピューターという言葉さえ知らなかった。


 コンピューターという言葉が使われるようになる前は、電子計算機と呼んでいた。

 隆一と汐子が知り合った1972年、カシオ計算機がパーソナル電子計算機、いわゆる電卓を発売した以降、ようやく電子計算機はコンピューターと呼ばれるようになった


 春が生まれた1975年、アメリカにマイクロソフトいう会社が生まれた、

 コンピューターを一般企業が採用するようになったのはそれ以降である。

 個人がコンピューターを持つようになったのはさらに遅く、1990年代にアメリカIBM社がDOSV規格を公開し、DOSV互換機が各社から発売されるようになってからである。

 以後技術開発は進み、価格もようやく個人が持てるまでになり、パーソナルコンピューターと呼べるまでになった。

 現在パソコンのハードウェア面での開発は限界近くまで達し、活動領域拡大競争の時代である。

 パソコンを有効活用する技術者はクリエイターと呼ばれる。


 隆一は春をクリエイターとすべく教育した。あの貧乏な家庭で育ち、職業訓練所に通った時代を思えば、春が育った環境は遥かに豊かで恵まれている。

 しかし、並みの努力では生き抜けない時代でもある。

 春に課せられた期待の重さは隆一の想像を超えていた。

 春は隆一の期待に背き画家の道に進んだ。


 奇しくもこの時、あの理想に見えた明舞団地に入居が決まったばかりだった。

 母と暮らすのを夢見ていた隆一は、汐子と春と言う家族を持ち、この団地に住める喜び浸っていたものの、親子三人で暮らせたのはわずか数か月であった、


 あの日、舞子海岸で汐子と波打ち際を歩いた時、足の裏を崩れるように流れ去った砂の感触が隆一の脳裏を過った。

 明石海峡のわずか3キロ先にある汐子の故郷、淡路が遥か遠くに感じた。












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