第8話


店に来てねと言う、ケンからのメール。


いつも、行かないと言う一言の返事だけしか返さなくても、週に1度くらいは、ケンからメールが来た。


まだ、ケンと繋がっていると言う喜びと、営業メールしかくれない悲しさに、ひかるは、切ない日々を送っていた。



そんな折り、久々に雅史からの電話が入る。



『ひかる?俺だ。忙しくてなかなか連絡出来ずに悪かったな』


『えぇよ。元気やった?』


『うん。仕事も順調だしな。来月は、お前、仕事忙しくなるだろ?今週、連休とれないか?ちょと遠いけど箱根へ温泉に行こう』


『うん。えぇよ。明日からでも休めるよ』


『そっか…じゃ、明日、朝に迎えに行く』



ケンのことは、忘れられない。


しかし、ひかるには雅史がいる。


今のひかるは、雅史の安らぎが欲しかった。



そうや…。


あたしには、ダーリンがおった…。


あたしに、将来を約束してくれた雅史がおったんや…。



翌日、ケンへの気持ちを圧し殺し、雅史に接した。


雅史の運転する横顔を眺め、心が穏やかになる自分がいた。


車の中は、雅史の柑橘系の香りで満ちていた。


雅史に良く似合う香りに、身も心も癒された。



隠れ宿的な古風な旅館にひかるは喜んだ。


一緒に温泉に浸かり、部屋に運ばれた料理を堪能した。


久々に浮かれた気分で雅史に甘える。


毎日増えていく酒の量に慣れているのか、雅史に注がれるままに、グラスを空けるひかるだった。


「お前、ちょっと見ない内に、酒、強くなったなぁ…」


「今日は特別やん。ダーリンと一緒に温泉来て、おいしいもん、食べさせてもらって、幸せや…」


「そっか…まぁ、たまには良いよな。今日は飲め飲め!」


さらにグラスに酒を注いで雅史は笑った。


気分が高まるままに、ひかるは、雅史に話かける。


「なぁ、最近は奥さんとどうなん?」


雅史は、天井を見上げ、タバコの煙を吐き出して、そのまま、ひかるに答えた。


「あいつは今、子供連れて実家に帰っている。俺の名前を書いて、ハンコを押してある、離婚届を実家へ持って帰った。後は、あいつがそれを提出したら、離婚は成立する。だから、来年からは一緒に住もう…」


「ホント!?」


「あぁ…」



これでケンを忘れられるかもしれん…。


雅史と共に生きていこう…。


ひかるは、それでも、ケンを好きな気持ちは完全には消せなかったが、雅史の元へ嫁ぐ気持ちになった。


「ひかる…こっちへおいで…」


いつになく、雅史の優しい言葉に従って、雅史の胸に顔を埋め、溢れる涙で雅史を見上げる。


そっと、優しくひかるの涙を拭った雅史は、ひかるを愛しそうに抱き締めた。


あぁ…。


今日は、あたしの涙を拭ってくれる人がいる。


ひかるは、自分から雅史へ、そっと口づけた…。



紅葉には間に合わなかったが、楽しかった箱根の温泉の旅から戻ると、また、いつもの生活が待っていた。


しかし、雅史の言葉によって、ひかるの気持ちは、だいぶ軽くなっていた。


ケンのことは忘れた訳ではない。


ケンに会えば、今の気持ちも揺らいでしまうかもしれない。


でも、ケンに会うには、ケンの働く店へ行く以外には無い。


「来年に入ったら、すぐに一緒に住もう」


雅史の言葉が何度も、ひかるの胸にこだまする。


大丈夫…。


もう、ケンちゃんは、想い出にしよう。


ダーリン…。


あなたを信じて、えぇんやろ?


あなたを信じてついてゆきます…。



街はもう、師走に入り、ひかるの働くスナックも忙しくなった。


それでも、週に1度はひかるの部屋に来る、雅史の世話をやき、仕事も充実して、ひかるは持ち前の明るさを取り戻した。


「ひかるちゃん、この前までは、なんか暗かったけど、元に戻ったね」


常連客にも、そう、声をかけられた。


「ありがとう…あたし、暗かった?便秘やったんや…けど、もう大丈夫。すっきり出したから…。ご心配かけましたぁ~」


「汚いなぁ…バッハハ~!」



常連客に、冗談で返す余裕も出来た。



今日は、部屋に戻ると雅史が待ってる。


今のひかるは、雅史しか見えない。



最後の客の帰りを見送ると、ひかるは家路へと急いだ。




「ただまいま~」


「おぅ!おかえり」


ひかるは雅史に抱きついた。


「ごめんな…遅くなって」


「気にするな…今日は、すし買ってきたから一緒に食おう」


「え?昼間にダーリンの好きな煮物、炊いとったんよぉ」


「それも食うよ…さぁビール出してくれ。一緒に食おう」


いつになく優しい雅史に頷いて、ビールと煮物をテーブルへ置く。



暖めたひかるの煮物を頬張り、ビールで流し込む雅史を、笑顔で眺めるひかる。


「どうした?お前も食えよ」


「うん…食べよう。一緒にごはん食べられるのって幸せやな」


食事を終え、シャワーを浴び、雅史の腕に抱かれながらひかるは眠った。


翌朝、仕事に出掛けようとする雅史に、見送る言葉の前に、何気に話掛ける。


「来年からは、毎日、いってらっしゃいが、言えるんやね」


一瞬、雅史の顔が曇ったように感じられたが、雅史すぐには答える。


「あぁ…離婚の手続きは終わった。後の整理が付き次第、一緒に暮らそうな」


「よかった~。じゃいってらっしゃい!頑張ってね!!」


ひかるは、元気に見送った…。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る