三十二、とびっきりの笑顔が見たいんだ
森が見えてきた。
空には弾けるような明るさはなくて、ゆっくりと夜を待つような穏やかさが流れている。
まだ赤くはない。
しかし森の入り口、地表付近ではいくつもの赤い点が蠢いていた。
ゆらゆらと揺れる赤はときどき空に向かって粒を散らす。その粒の行方を目で追っていたユイルのうしろにリッドは立った。
「やっと追いついた。やっぱり馬は速いな。僕だって初速なら負けないのだけれど、長く走るのは苦手でね」
「来てくれたのね」
「この木立に隠れるうしろ姿を見つけていなければ、知らずに追い越してしまうところだったよ」
うしろから隣りへと移る。
ユイルは馬の頸を撫でながら、森の前で蠢く人影を眺めていた。
ここから魔女の森までは距離がある。
人が集まっているということは認識できたが、それが誰であって、何をしているのかということまでは掴むことができなかった。ただ『大勢』ということはよくわかる。
「あちらから僕らは見えているだろうか」
「きっと見えていないわ。ここにこんなものがあるなんて、何度も近くを通ったことのあるあなただって初めて知ったことでしょ?」
言いながら、ユイルはうずたかく積まれた瓦礫に腰を下ろした。
かつてこの場所にあった集落の残骸らしい。外からではまったく気がつかなかったが、木立の中に足を踏み入れてみれば、あちこちに朽ち果てた木材や、石垣であったものなどが散乱している。それらはとても古いもののようで、リッドが生まれるよりずっと前に今の景色になっていたという。
「こんな風にはなって欲しくないな」
「森のこと? あの森はそんな簡単には朽ちたりしないわ。私がいるもの」
「いや森ではなくて」
それじゃあ何のことかとユイルが眉をひそめる。
「君とファブールの人たちとの関係さ」
「そういうことね。私もそう願っている。だからここに来たの」
ユイルは遙か遠くの彼らを見つめ言った。
「森にかけられた魔法のことを彼らは知らない。火を放ったりしたら、きっと森の反撃にあうわ」
「ということは、彼らから森を守るんじゃなく森から彼らを守るために君はここに来たと言うんだろうか」
「言ったでしょ。あの森はそんなに簡単に朽ちたりしないって。それなら街の人たちが傷つかないように手を尽くすのが今の私のやるべきことよ」
「そういうことだろうと思っていたけれど、しかし君は本当にお人好しというか――」
「馬鹿だなって言うんでしょ? でもそういうところは嫌いじゃないって言ってくれたじゃない」
「まあ、そうだね。そうなんだけれど、ほどほどにしてくれないと僕の身が持たないんだ」
「放っておいてくれてもいいのよ」
「本当に?」
「本当よ。でもあなたなら何だかんだと言いながらきっと手を貸してくれると信じているわ」
「買いかぶりすぎだよ」
「そうかしら。人を見る目はある方だと思うけれど」
「二百年も人付き合いをしてこなかったくせによく言うよ」
「経験じゃなくて直感なのよ。そういうことで言えば、街の人たちだってきっとわかってくれると信じている」
あっけらかんとユイルは言った。
しかしリッドは不安を拭いきれずにいた。
本当に街の人たちとわかり合うことができるだろうか。森を守ることができるだろうか。そう考えると不安要素しかないことが気にかかる。ラパスが言っていた兵器の進歩もそうであるし、審査の場で誰もユイルを援護しようとしなかったことはやはり引っかかる。
森から彼らを守ったところで、彼らがユイルを守ってくれる保証はどこにもないのだ。
「うしろから刺されるなんてことにならなければいいけれど」
「きっと大丈夫」
ユイルはそうとだけ言って、木々と集落の残骸の間を前進する。リッドは渋々あとに続いた。
一歩一歩、迷いの森に近づいていく。
次第に人々の様子が明らかになっていく。
彼らはまさしく民衆だった。
兵などではない。
シャルムの街中を歩くそのままの服装でそこにいる。違うのは、顔つき。彼らの険しい顔つきからはシャルムの街の陽気さや賑やかさは微塵も想像できない。
準備はいいか、とそんな声が聞こえた。
次いであの赤い点が頭上に掲げられる。幾つもの強い赤い色は天を突くように揺れた。
その赤に照らされたある男の顔を見て、二人は言葉を失った。
民衆を率いるように前に立っていた男の傍らには、老いた大型犬が静かに控えていた。
「マルシャン……あなたがそこにいるなんて」
ユイルが唇を噛む。
「彼だけじゃないようだよ」
リッドは平静を装った。しかしうまくできている自信はまったくなかった。
リッドでさえも信じたくないと思える顔ぶれがそこに並んでいるのだ。
本当に彼らなのか。
確かめるように、また一歩一歩前進する。
ユイルの歩幅は徐々に大きくなっていく。
駆け出しそうになる彼女の腕を掴み歩みを止めさせた。
一際大きな声が響いた。
何かの号令だったようだが、興奮が混じった物言いではそれが何であったかわからなかった。
しかし志を同じくした民衆同士には伝わったようで、訓練された兵のようにとはいかないものの、皆が揃って森の方へと体を向けた。
民衆が手にした松明が明々と辺りを照らす。
人々の挙動をうかがえる距離まで来た。
ということは、こちらの姿も見えておかしくない距離ということだ。草木に隠れ近づいて来たが、これ以上前に進めば発見されるおそれがある。
だというのにユイルはリッドの手を振り払おうとしている。
「もしあの昂ぶりが森だけでなく君にまで向けられたらどうする。君はどうにかできるのかい」
「でも何もしなければ街の人たちが傷ついてしまうわ」
気が昂ぶって声が荒々しくなる。
向こうに聞こえやしないかとひやひやしたが、彼女の声を掻き消すような大きな声が発せられた。
「みんな、覚悟はいいか!」
マルシャンだ。いつもの穏やかさからは想像できないような力強い声で民衆に呼びかける。
彼の声に応え民衆が強く太い声を響かせた。
手に持つ松明を振り、武器を鳴らす。
混ざり合う音の中で、人々の興奮は増していった。
ユイルは必死にもがいている。
リッドは躊躇した。この手を離すべきか否か。ユイルとともに街の人たちを守るべきか、それともユイルだけでも守り抜くべきか。
自分はどうしたいのか。
無情にも考える時間は与えられなかった。
「よし! やるぞ!」
マルシャンの声で群衆が整列した。
森と向き合う人々。表情は険しい。
そんな彼らがくるりと向きを変えた。
「…………え?」
自分が発した声だと思ったが違った。
リッドはかろうじて「え」と口の形を作っただけで、実際に声にしたのはユイルの方だった。しかし二人ともがその光景に同じことを思ったらしい。
森に視線をぶつけていたファブールの人々が、その森に背を向けた。
ずらっと並んだその姿は、森を守るために立ちはだかる堅固な壁のようだった。これから森を攻撃しようという姿にはまったく見えなかった。
「リッド、あれ、どういうこと?」
困惑にユイルの動きがぴたりと止まる。
そんなことが起きているとは露知らず、マルシャンが高らかに言い放った。
「いいか、これより迷いの森防衛作戦を開始する! ……といっても私たちにできることはここに居座って兵隊の妨害をするくらいだが。だがしかし! ここで何もしないなんて、そんなやつはシャルムの人間じゃあない!」
慣れないことをしたせいでごほごほと咳き込む。ひとつかふたつ野次が飛んだが、マルシャンは気にせず胸を張った。
「森を焼かせるな! あの子の薬に助けられたその恩を返すときだ! ――調合屋のために!」
「そこは『ユイルのために』だろ!」
指摘が入ってどっと笑いが起きる。
「そうだ。ええと、ユイルのために!」
呼び慣れない名を呼ぶぎこちなさでマルシャンは声を張り上げた。何とも言えない空気が流れて次に続くのを皆が躊躇する。
「何やってんだよ。ほら、行くよ! かわいいかわいいユイルのために!」
肉屋のオネットが皆の前に躍り出て煽る。
ユイルのために!
あちこちに声が沸く。
男の声で、女の声で、年寄りの声で、若者の声で「ユイルのために!」と続いていくと、その声はやがてひとつの大きな声の束になった。
「ユイルのために!」
それを聞いてしまってはユイルを留めておくことはできなかった。
リッドは彼女の腕を掴んだまま木立の茂みから飛び出した。
いち早く気づいたマルシャンの愛犬がワンと太く声を響かせたことで、群衆の目がリッドたちに向いた。
ユイルはリッドの手を離れ自ら駆け出す。
そうして皆のもとにたどり着くと、あっという間に人々に取り囲まれた。
「ユイル!」
と誰かが喜びの声を上げた。
「無事で良かった!」
と強引に抱きしめたのは肉屋のオネットだ。自分はそうしているのに他の者が加わろうとすると力尽くで引き剥がす。
「みんな……どうして…………」
ユイルはシャルムの人々の輪の中でさ迷うように視線を巡らせた。
「街のみんなが森を焼きに向かったって聞いたんだけど、違うのかい?」
遅れて人々の輪に入ったリッドがユイルのすぐ横に立った。うまく反応できていないユイルに代わって尋ねたのだが、見慣れぬ獣人の姿に興味津々の人々からはしばらくその話題しか出てこない。
「アタシたちが森を焼くって? リッド、あんた本気でそんなこと言ってんのか」
ようやく答えてくれたサージュは不機嫌そうにリッドを小突く。
それを見て街の人たちも「馬鹿だな」とか「誰がそんなことをするかよ」と呆れた様子で続いた。
「それじゃあ、こんなところに何をしに来たと言うんだい」
リッドがあらためて問うと、サージュやオネットは顔を見合わせた。
「恩返しと、罪滅ぼしってとこかな」
マルシャンが群衆をかき分けたどり着く。ユイルの前に立って深々と頭を下げた。
「ごめんよ。あんなに世話になっておきながら、審査会場では何もできなかった。どうしていいかわからなかった」
「アタシもさ。突然のことで何が何だかわからなくてね」
サージュが言うとオネットをはじめ、その場にいる人のほとんどがうんうんと頷いた。
「今も何ひとつわかっちゃいないんだけどな。あの兵隊が言っていたことが本当なのかどうかもわからないし、リッドやユイルが良いやつなのか悪いやつなのかもわからない」
サージュが困った顔で言う。
「それなのに、どうして森を守りに来てくれたの?」
ユイルの問いに街の人々は顔を見合わせた。
「わからないから、聞こうってことになったんだ。二人にちゃんと話を聞いてみようって。特にユイル、あんたにだ。アタシたちはあんたのことを知らなさすぎる。それじゃあ何にも判断できないだろ」
言ってサージュはユイルの右の頬を優しく撫でた。ユイルの顔のこわばりがいくらかやわらぐ。
「その前に勝手に終わらせられたら、いくら後悔してもしきれないからさ。だから森が焼かれるのを阻止しに来たんだ」
「いいのかい? そんなことしたら軍に、ひいては国に背くことになると思うけど」
「背くなんてとんでもない。ちょっと待ってやってくれってお願いするだけさ。まあ多少やり方が荒くなるかもしれないけどな」
豪快に笑った後方で腕っ節の強そうな男たちが自分の筋肉を見せつけるようなポーズをとっていた。どれも宿に併設された食堂で見かけたことのある顔だった。
「だいたい国民の声も聞かずに一方的に斬りつけるって言うんなら、それはもうアタシたちが信じるべき国じゃないんだよ。そういうわけで、アタシたちは森を焼きに来たわけじゃないからさ。安心しなよ」
優しく頬を撫でていたサージュの指先がいたずらな動きを見せた。ユイルのやわらかな肌をぐにっと摘まんだかと思うと引っ張ったり上下に動かしたりして遊びだす。
なぜそんなことをされているのか状況を理解できず、ユイルはただ目を丸くしてサージュを見つめていた。
「なあユイル、あんたのことをアタシたちに教えてくれないか。魔女のこと。森のこと。昔昔にアタシたちのご先祖様との間で起きたこと。たくさん教えてくれよ。まずは……そうだなあ、あんたがどんな風に笑うか私たちに見せておくれよ」
サージュの指はついに左の頬にも及ぶ。
ユイルの柔肌は両側から攻められて、引きつったりつぶれたり。滑稽な顔にされたあと、口角をぐいと上げられた。
「これがあんたのとびっきりの笑顔かい?」
サージュが意地悪な顔で言う。
ユイルは首を横に振って拘束から逃れた。
「違う。もっと笑えるわ。だって、……こんなにも嬉しいことはないもの」
そう言ったユイルは、サージュではなくリッドの方に顔を向けた。
「ほら、言ったでしょ。諦めるのは早いって」
そのときの表情といったら――
「ユイル、とびっきりの笑顔というのはそういうものではないんだと思うよ。それじゃあ憎たらしい笑顔だ」
「そう?」
ユイルは嬉しそうに、しかしそれ以上に得意げな顔をリッドに見せつけた。
まあいいじゃないかとサージュが笑う。
そのやりとりを聞きながら人々は微笑みを浮かべていたが、ある音が聞こえてくると次第に緊張へとすり替わっていった。
何台もの砲車を引く重い音がビリビリと伝わってくる。空気は震え、地面からはだんだん近くなってくる振動の勢いを感じた。
「喜んでいる場合じゃなさそうだなあ」
リッドが言うとシャルムの住人たちがその場に身構えた。
「彼らも話してわかってくれれば、こんなに面倒なことをせずに済むんだけれど」
リッドも倣って、手足を大きく回しほぐして備える。
「そうではないからこうなっているのでしょ」
ユイルは気高き魔女らしく凜とした表情でリッドの隣りに立った。
「頼りにしてるよ」
とリッドは茶化すように言った。「真面目にやってよ」とか「あなたもちゃんと動くのよ」といったお叱りを受けるのだと思ったのだが予想は大きくはずれた。
「任せておいて。きっとみんなを守ってみせるから!」
自信に満ちあふれたファブールの魔女はそう言って一つ目の魔法を発動させた。
青い精霊石を用いた水の魔法。
森を濡らすように降らせた大粒の滴は、枝に幹に葉に土にたっぷりと染み込んだ。
それは本来ならば慈雨として人々に安息をもたらす性質のものであったが、今は違う。その水を見て浴びて、人々の顔つきはより厳しく引き締まった。
『覚悟』などではない。ユイルと同じく、自信を持った顔つきだった。
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