七、むかしむかし
この国に限ってのことを言えば、魔女という生き物は二百年ほど前に姿を消した。
長命で博識で、精霊の力を借りて神秘の技を操る生き物。
魔女とはそういうものであったため、ファブールの人々は彼女らのことをあるときには敬いあるときには畏れ、しかし共に手をとり『友好』といえる関係を築いていた。
その関係はある日突然崩れる。
『臆病マレーズ』と呼ばれた時の王により、彼女らは粛清されることになる。
「この国の歴史を知っている?」
「詳しくはないね」
これくらいと親指と人差し指で表してみる。
ユイルは本棚の前に立ち、一冊の本を手に取った。ぱらぱらといたずらにページをめくり目を細める。
「たとえば。あなたたち人が一生のうちに得る知識がこの本一冊分だとしたら、魔女はこの本棚にあるすべての本くらいだと言われているわ」
「それはすごい」
「そうね。人はそう信じて疑わない。実際にはそれほど多くはないのに。ただあなたたちより長く生きている分少し物知りというだけよ」
ユイルはリッドの言い方を真似た。
「でも、その知識と力を王は恐れた」
この国の魔女はそれまで、薬を作り、占い、魔法で天災から民を守るということで、王室とも国民とも良好な関係を築いていた。
それなのに、たった一人の王が
『これだけの力を持っている魔女が、いつか裏切らないとどうして言える? 我らを蹂躙しないと、どうして言える?』
何に怯えたのか、そう言った。
国民の多くは王の発言に呆れ嘲笑った。
しかしそれがまた王の恐怖心を煽ったようだ。国民の心は魔女に支配されている。いつか魔女は国民を引き連れて反乱を企てる。放ってはおけぬと王が一言告げれば、家臣はそれに従うしかない。もっともらしい理由を携えて魔女の討伐に乗り出した。
「これだけの魔女がいれば、いくら王国が相手とはいえ太刀打ちできそうなものだけど」
自然と無数の肖像画に目がいく。
「他は知らないけれど、この辺の魔女は争いを好まない。ともに暮らしたファブールの民と戦うくらいならと、多くの魔女は早々に他国へ逃れたわ」
しかし一部の魔女は、国内に点在していたいくつかの森にとどまることを選んだ。
「魔女の森、か」
「そう。薬の材料となる植物を採取し、精霊と交流する。そのために長い年月をかけて育んだ特別な森が『魔女の森』。一度失えば容易には復活させられない」
森を守るために残った魔女たちは戦った。
しかし彼女らの魔法では人間たちと五分に戦うことが精一杯だった。争いを好まぬ彼女らの多くは、そもそも戦うための魔法には長けていなかったのだ。
それでも、森を守りたい一心で戦った。
彼女らが文字通り必死に応戦したことで、一方的な『粛清』であったものは長い長い『戦い』となった。戦禍は拡大し、やがて傍観していただけの民衆たちにも影響が出始めた。
食糧は兵糧へ。働き手は兵力へ。森に近い村は前線基地とするために接収され。女たちが慰み者にされたという話まで聞こえてきた。
「そうすると、どうなると思う?」
「普通は王や兵に対する怒りが膨らむはずだけれど、」
それが正解だとしたら問いにするまでもない。
「まあ、あれだね。人間というものは同族の非を責めるよりも異物を排除する方が正しいと考えがちだから、『俺たちが苦しんでいるのは魔女のせいだ!』とか、すっとんきょうなことを言う輩が出てくるね。しかも一人、二人じゃなく」
リッドの言葉にユイルは寂しそうに笑った。
「その言葉はあっという間に国民に広がっていった。王の幻想だったはずなのに、いつのまにか私たちはファブールにとって『悪者』になっていた」
それは部外者のリッドが聞いていても不愉快な話だったが、ユイルはただ「悲しいすれ違いよ」とだけ言って争いのその後を濁した。
「その結果、ここ以外の森は残らなかったということか」
「この森は母と姉が必死に守ってくれたから」
ユイルはふたたび魔女たちの肖像画に目をやった。その中の一枚をじっと見つめる。二人の魔女が描かれているのだが、よく見れば他のものに比べて雑な印象を受ける一枚だった。なんというか、殴りつけるように色が塗り重ねられているのだ。
「なんだかこう強い感情をぶつけた痕が見られるような気がするんだけど」
「それ、母と姉の絵よ。二人には感謝してる」
「感謝……?」
絵から感じる印象とはほど遠い言葉だ。
「してるに決まってるでしょ。この森を守ってくれたんだもの」
当時はまだ幼かったユイルを連れて森にとどまった母と姉。彼女らはファブールでは名の知れた魔女だったようで、他の魔女にはできない方法で森を守った。
「森全体にね、魔法をかけてしまったのよ。一度足を踏み入れたが最後、二度と森の外に出られない『迷いの森』をつくった。おまけに攻撃を仕掛けてくるものには誰かれ構わず反撃するという
それほどの大きな効力の魔法を森全体という広範囲にかけられる魔女はそう多くはいないという。
初めの数年は王が送った兵たちがしつこく挑んできたものだが、いつのまにかそれも絶え、王が死に次の代へ、さらにその次へと移ると、魔女のことも魔女との間にあったことも人々の記憶から消えていった。
「おかげでこの森は今もここにこうして残っているというわけ」
めでたしめでたしと締めくくろうとしたところでリットが声を上げる。
「今の話だとお母さんとお姉さんがいるはずだけど」
きょろきょろと家の中を見回すが、どうも他に人間が生活している気配は感じられない。そしてやはり、二人の肖像画が気になってしょうがない。
リッドの問いにユイルは口を尖らせた。
「あの人たちは薄情なのよ! 『もうコソコソ生きるのに飽きた』なんて言ってどこかに行ってしまった。百年も経たないうちに音を上げたのよ。情けない。…………そんな理由で、せっかく守ったこの森を捨てるなんて」
ユイルが窓の外に目をやった。
「魔女が討伐される前には、木や花の妖精なんかがいて賑やかだった。もっともっと前には獣人や小人なんかもいたらしいわ。それでヒトとも仲良しで。そんな豊かな森だった」
日の出を待つ森はまだまだ静けさの中。
しかし生きている気配がする。
獣の遠吠えがかすかに届き、木々が風に揺れる。大きく張った枝が揺れる度に葉が擦れ音を立てる。森で採ったらしい植物の匂いがこの家のあちこちに染みついていて、騒がしいけれど心地よかった。
音も匂いも感じられる、いい森だ。
もう少ししたらここに光が差して、そうしたならいっそう活き活きと輝いてみせるだろう。
「今以上に豊かな森か。それは見てみたかったなあ」
「そうでしょ?」
ユイルは食い気味に言って続けた。
「それじゃあ、いいわよね?」
リッドの真正面に立ち期待するような眼差しを向けてくる。その表情と発言の意味を掴みきれずたじろいでいると、ユイルの視線は睨みつけるような圧のあるものへと変わっていった。
「いいわよねって、……何が?」
「王室御用達よ。もちろん更新してくれるでしょ?」
「ちょっと何を言っているか――」
魔女の森と王室御用達がどうつながるというのか。
「私は元の森を取り戻したいの」
「いや、だから、それと王室御用達の関係がよくわからないのであって」
「森のためには御用達でなければいけないの!」
ユイルの視線がわずかにぶれた。
彼女の熱量に圧倒されながらもその行方を追うと、部屋の中、いくつかの道具が目についた。
日常の生活において使うもの。おそらく薬の調合に必要な道具だ。どれも一部は新しく、一部は骨董品の域に達するほどにくたびれていて。ではユイルが身につけている衣服はどうかとよく見てみれば、生地が薄くなってしまっていたり、裾がほころびたりしていた。
リッドの視線に気がついて、ユイルは恥じるような顔を見せた。
「魔女は長命でも、物はそうはいかないわ。二百年も経てば修繕だけではどうにもならなくなる。森が戻るまであと何年かかるかわからないし、自給自足の生活ではそのうち破綻してしまう。私には生きるための物が……それを買うためのお金が必要なの」
滅びたはずのファブールの魔女が、人の世界で金を稼ぎ物を手に入れるためにとった手段が『正体不明の調合屋』ということらしい。
「だけど、得体の知れない奴がつくった薬だなんて気味が悪くて買いたいと思わないでしょ? ある程度の信用がある店に置いてもらって、王室御用達の称号を得たりしなければ適正な価格での取引は難しいと思わない?」
「そんなものなくってもマルシャンは信用したよ」
初めはしっかり疑ったみたいだけどねとリッドは笑った。
「彼は例外よ。あんな人はそういない。マルシャンがいなければ今ごろ私、どうなっていたことか……」
本当に感謝しているのだと言ったユイルの口もとがほころんだ。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに険しさを取り戻す。
彼に迷惑をかけないためにも、今まで通り『王室御用達』でなければいけないのだとユイルは息巻いた。
「更新ができなかったとなれば、その理由を邪推されて信用を失うわ」
「そう? 初めのころはともかく、君はもうたくさんのお客さんから信頼を得ているようだから、王室御用達の肩書きがなくても正体不明でも、何とかなるような気がするけれど」
「悪い噂や憶測はあっという間に広がって、事実を覆い隠してしまうものよ」
「ファブールの魔女がそれで滅びてしまったように? それとはまた違うと思うんだけどなあ」
リッドの言葉にユイルの顔がこわばった。
「ああ、ごめん。まだ君がいるから『滅びた』という表現は適切ではなかったね」
もちろん、彼女の感情を波立たせたのはそのことではない。的外れな謝罪に彼女の苛立ちが見てとれる。
「どうしても更新してくれないと言うの?」
「そんなこと一言も言ってないじゃないか」
「じゃあ更新してくれるの?」
ずいと顔を近づけ迫ってくる。
「それは……」
リッドはユイルの猛撃からするりと逃げ、テーブルを挟んで立った。
「今まで通りというわけにはいかないよ」
「どういうこと? 薬の出来は問題ないってさっきあなた自身がそう言ったじゃない」
「王室御用達はそれを作っている店に与えられるんだ」
その説明では伝わらなかったようでユイルは険しい顔のまま小首を傾げる。
「まず第一に、『街で評判の良く効く薬』はあの店で作っているものではないから、あの店の『王室御用達』は剥奪される」
「そんな」
「まあ最後まで聞きなよ。そんなに悲観することじゃない。マルシャンの店は『御用達』ではなくなるけれど『御用達取り扱い店』としてならば営業できるだろう」
「……それは今までと何が違うの?」
「実質は変わらないね。だから悲観することじゃないと言ったのさ」
リッドの言葉にユイルはほっと胸をなで下ろす。しかし次に続いた言葉にただちに顔色が変わった。
「でもそのためには、君が表に出なければいけないという問題がある」
当然のことだというのに、まるで今初めて気がついたというような驚きようでユイルは黙った。
「君自身が表に出て更新の審査を受ける。それが最低条件だろうね」
「そんなの……」
怒りと動揺が見てとれる。
「でもその最低条件をクリアしさえすれば、すべて解決できる。王室御用達の上に魔女が作った効果抜群の薬となれば今以上の高値で売れるだろうし、けっして悪い話ではないと思うけどね。魔女の薬かあ。近隣の国での相場がたしかこれくらいだから差額は――」
指折り儲けを数えているとユイルはいっそう不機嫌になった。さっきの話を聞いていなかったのかとため息がもれる。
「ここは魔女を拒絶した国だって言ったでしょ」
「でも二百年も前のことだろ」
「あなたはこの国の人間ではないからそんな風に言えるのよ」
ユイルの視線が魔女たちの肖像へと流れる。しかしそこに留まることはなく、窓の外へと向けられた。
「そう。二百年前のこと。でもファブールにはいまだに私以外の魔女はいない。……つまり、そういうことよ」
怒りなのか悲しみなのか、はたまた落胆なのか。横顔よりも深い角度でリッドから背けた顔からは本当の気持ちをうかがい知ることはできない。
せめて気が軽くなるようなことでも言えれば良いのだが、リッドが今伝えなければならない言葉はそれとは真逆のものだ。
「そういうことなら、残念だけどマルシャンの雑貨屋は審査を拒否したため更新不可――ということになるけど、いいかな?」
肩に掛けていた鞄から筆記具を取り出しその旨を書き込もうとした。その手をユイルが掴んで止める。
そのまましばらくリッドの顔を睨みつけていた。圧は感じたが恨みがましいものには見えなかった。力強い眼差しの奥で、困惑しそして葛藤しているようだった。
掴んで、睨んで。唇は次第に真一文字に結ばれて。
窓の外、チチチッと小鳥同士が呼び合う声が響いたところでユイルはゆっくり頷いた。
「わかった。審査を受けるわ」
「君が?」
「そうよ。私が、よ」
ユイルはもう一度頷いた。
思いがけない言葉だったもので、リッドはつい「いいのかい?」と念を押してしまった。
どうしてそんな言葉を投げられたかわからないといった風にユイルは目を瞬かせる。
「だって君自身が審査を受けるということは――」
言いながら、リッドの視線はつい肖像画の数々を巡る。それでユイルは理解したようで、ふうっと大きく息を吐いてから「馬鹿ね」と呆れた顔をした。
「魔女と名乗り出るつもりはないわ。今のまま『正体不明の調合屋』として王室御用達になってみせるから!」
ユイルは力強く、高らかに言い放った。
「正体不明の調合屋、だって?」
あまりに想定外の言葉に、今度はリッドが呆れる番だった。
正体不明の調合屋。
それはつまり、更新審査のために人前に姿は見せるが素性はなるべく明かさず、『人里離れてひとり暮らす天涯孤独の少女』というような適当にでっち上げた設定を用いてなんとか乗り切る、ということらしい。
「今回の更新は、どこの誰が作っているかわからないとか申請した当人がすでに亡くなっているだとか、そういういい加減な状態を正すために行われる制度改革の一環なんだから。『正体不明』なんて許されるわけがないよ」
表面的に上手く進んだとしてもきっとどこかでボロが出るだろう。
しかしどうしてかユイルは自信たっぷりだった。
「うまくいくわ。だって今の私にはあなたという協力者がいるんだもの」
「僕が? 君を助けるって?」
「そう。何ごともなく審査を受けられるように、手伝ってくれるでしょ?」
そう言ってリッドの両手をしっかり握った。その手をすぐに振り払えれば良かったのだが、リッドにはそれができなかった。
ユイルの手のやわらかさが心地よかったということもある。しかし決定的な理由となったのはユイルが懐から取り出した
「ねえ、この森がどんな森なのか、私がさっき話したことを覚えてる?」
言いながら壁に飾られたファブールの魔女たちの肖像画に視線を遣った。彼女がとらえたのはそのうちの一枚。この森を守ったという偉大な二人の魔女の肖像。
「あ」
彼女らがどうやって森を守ったかを思い出したところで、思わず声が出た。
自分でも情けなく思うくらい、力の抜けきった声だった。
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