幕間1 ―雪音と紗凪― Interlude1
僕の願い事はさほど多くはない。
その中でもどうしても叶えたいと思う願いはたったひとつしかない。大切な人がくれた願いだ。
僕があなたの帰る場所になれたらいいと、
——心から願うんだ。
―紗凪― The First Part
それは
「はあ?」
雪音先輩が珍しく素っ頓狂な声を上げる。
「いや、だから、初めて吸血した時の話をだな……」
先輩の前でしどろもどろになっているのは、
衣蕗ちゃんは黙って立っていれば長い黒髪が目を引くクールな美人さんで、スラッと手脚も長いし、その上強いし、綺麗でかっこいいと評判の〈
——そう、黙って立っていれば。
ただ口を開くと、ちょっぴり情けない時もある……のだ。特に先輩を前にすると。
「……衣蕗、あなたにはデリカシーってものがないの?」
「は? お前が言うなよ。散々人に吸血しろしろって言ってばっかりのくせに」
「それはあなたが吸血も満足にできないからでしょう? 私だってそんな事わざわざ言いたくないわよ」
「それは、そうだけど……。……わ、私だってできればちゃんと吸いたいんだよ。だからこうやって、べ、勉強してるんだろ」
「……勉強、ねぇ……」
椅子の上で縮こまる衣蕗ちゃんを見下ろしつつ、先輩が呆れた声を出した。
「その勉強とやらが、人に初めて吸血した時の事をわざわざ聞いて回る事なの?」
「いや、聞いて回っては……お前にだけだし。初心者として、お前が初心者だった頃の話を聞けば少しは参考になるかと……」
言いながら余計にしどろもどろになっていく衣蕗ちゃん。
うーん。
やっぱりなんていうか、努力が明後日の方向を向いちゃってるんだよね……。美人さんなのに……。
そもそも、そんな事聞かれても恥ずかしいし。
吸血というのは、まあつまりだいたいの場合……そういう事と……セットなわけだし。
〈吸血餽〉にとって、吸血衝動は性的欲求と同じなわけで。
つまり、まあ、……
だから、僕と先輩が初めてそういう事をした時の話を聞かれているようなもので。僕まで恥ずかしくなってしまう。
視線のやり場に困り思わず先輩を見上げると、目が合ってしまった。
初めて吸血した日。
それを思い出してしまい、僕もなんだか顔が熱くなった。
先輩は吸血でもなんでも上手だし、痛くて嫌だと思った事もないし、たまに強引なところもあるけれど、でも、初めての時は——
「紗凪。思い出さないの」
「わあ!」
心の中を読まれたのかと思って、びっくりしちゃった。
「ごめんなさいっ」
「とにかく、そんな話はいたしません。そんなに経験談が聞きたいなら
「いや、それはそれで刺激が強すぎるというか」
……まあ衣蕗ちゃんを茶化しながら、面白おかしく話しそうだしね……椎衣那中佐は。にやにや笑う眼帯姿を思い起こし、苦笑してしまう。
「とにかく話はこれでお仕舞い! さっさと蒼緒の所に戻りなさい!」
そう言って、兵舎の部屋から衣蕗ちゃんを追い出してしまい、部屋には先輩と僕だけが残された。
「……衣蕗ちゃんも重症だね」
「本人曰く努力はしているようだし、それは認めるけれどね。でも吸血欲求はあるようだから、さっさとやる事やればいいのよ」
「それはそれで先輩もデリカシーがないと思うけど……」
そう言うと、心配ですっかり深くなった眉間のしわをさらに深くしては、衣蕗ちゃんが座っていた椅子に腰掛けて、ため息をこぼす。先輩なりに心配しているんだけど、先輩は先輩で不器用なところがあるんだよね。
「……先輩だって最初はだいぶ吸血を拒んでいたけど?」
そう言いながら先輩の前に立ち眉間に指を当てると、バツが悪そうに目を逸らす。
「そ、それは……!」
口をへの字に曲げ、ちょっと拗ねるのが可愛い。でもそんな姿を見せるのは僕にだけだ。
僕の先輩——花總雪音大尉——は気位が高い。
それはまあ、見ての通りだ。
さもお嬢様然とした立ち居振る舞いは、会って五分もしたらわかるだろう。
豊かな金髪に目鼻立ちもはっきりしていて、女優さんみたいに綺麗だ。
おまけに立っても座っても背筋がピンとしているし、歩く歩幅でさえコンパスで測ったように一定だ。服に埃なんてつけていないし(毎夕僕が服にブラシを掛けている)、髪もいつだってツヤツヤだ(毎晩僕がシャンプーしてトリートメントして、櫛を通している)。
言動だってお嬢様を絵に描いたようだ。いつも上から目線だし、他人にも自分にも厳しく、こうあるべきという理想が高く融通が利かない。
……まあ、はっきり言って面倒くさい部類の人間——いや正確には〈吸血餽〉——なのだ。
僕も最初はそう思ったし。
とにかく超がつくほどの美人さんで気位が高いと、周りの人間は萎縮する。近寄りがたいとも言えるし、厄介者と思う人もいるだろう。
それでいて、彼女を利用しようとする者は多かった。
元々華族出身であり、地元では彼女を知らぬ者など一人もいないと言うのは比喩ではなく、それが彼女の現実だった。どこへいても花總の名がついて周り、二言目には花總の御息女と呼ばれた。
家は当然裕福であったけれど、それに見合った振る舞いと教養を求められた。
どこにいても他人からの視線を感じ、そのくせいつだって周囲が見ているのは花總という家名だった。雪音という個は必要とされず、御令嬢としての器さえ美しく保てさえいればそれで良かった。
それがある日、彼女が〈吸血餽〉である事が判明した。
発症したのだ。
その途端、彼女は一族から亡き者とされた。雪音という少女など初めから存在しなかったように。
見知らぬ土地の屋敷に軟禁され、一切の自由を奪われ、家族すら——否、家族だからこそ一族の恥と彼女を疎み憎んだ。メイドでさえ彼女を蔑んだそうだ。
そして一族の中に〈吸血餽〉がいるという「醜聞」が漏れる前に、彼女は軍に捨てられた。その後の事は彼女自身にもわからない。精々病死扱いされたのだろうと言うのが、彼女の見立てだ。花總の家なら医者に嘘の診断書を書かせるのも死亡届けを受理させるのも、出来ない話じゃない。
軍で初めて彼女と会った時、彼女は憔悴し切っていた。吸血を拒んでいたためだ。
〈吸血餽〉であるのに〈吸血餽〉である自分を呪っていた。飢餓感に苛まれ、そのくせ簡単に死ぬ事も出来ない。
痩せ細り眼光に生気はなく、自傷を繰り返していた。
僕もまた、最愛だった唯一の肉親である祖母が病死し、いわゆる天涯孤独になった。施設や役所をたらい回しにされ、行きついたのが軍だった。僕もまた自暴自棄になっていた。
〈吸血餽〉の〈
実際〈花荊〉をそういうふうに扱う〈吸血餽〉もいなくはない。軍としては兵となるならなんでも良いのだ。
僕は適当に〈吸血餽〉に充てがわれた。
それが雪音先輩だった。
先輩と呼んだのは単に軍に馴染みのない僕が右も左もわからず、上官である彼女をそう呼んだためだ。〈吸血餽〉は自動的に大尉の階級が与えられたから。
それはともかく、彼女の生活能力のなさは折り紙付きだった。生粋のお嬢様だったのだ。メイドがいなければ、水を汲んで顔を洗う事も出来やしない。
僕は生来のお節介焼きだったようだ。
祖母との二人の暮らしは貧しかったが、その分自分で何でも出来なければならなかった。苦だと思う前に、生活の術は染みついていた。
だから彼女を見て呆れ果てた。過去の事など知らなかったし、彼女も一切語らなかった。身の上は彼女からの信頼を得た後に聞いたものだ。
とにかく何もできない彼女の世話をつい焼いてしまい、却ってそれが僕の生きる活力になった。
あの日、役所でたらい回しの上、ほとんど騙される形で軍に来る事を選択しなければ、僕は今も市井にいたのかも知れない、——孤独の中で。人として生きられはするものの、それが幸せなのかわからない。でも、そんな未来はなかった。
なくて良かったと今は思う。
普通の暮らしではないけれど、いつの間にか先輩と過ごす時間が僕にとってかけがえのないものとなっていたから。
それから、おかしな共同生活がはじまった。
お嬢様と貧乏人。
何かもがちぐはぐだった。
部屋の端でうずくまるだけの彼女の顔と手脚を洗い、無理矢理面倒を見て、少しずつ生活を変えた。
幸いだったのは、彼女に一切の生活能力がなくて、世話をみられる事に慣れていたことだ。僕がどんなに世話を焼いても基本的には無抵抗で、世話をしやすかった。
それから時間をかけ、彼女を知った。好きなこと、嫌いなこと。したいこと、したくないこと。子供のわがままを聞くように世話をした。背の大きな妹ができたみたいだった。
そうやって数ヶ月が経ち、ある日、初めての吸血をした。
〈吸血餽〉にとって、吸血とは性衝動と同義だ。
彼女たちの唾液などの体液は、痛覚を麻痺させる上に催淫効果がある。そうやって吸血を容易にさせている。
……まあつまり、吸血されたってことは、セットでそういうこともされちゃったわけだけど。
庇護欲と友愛と同情と色んな感情がごっちゃになったまま、彼女にそういうことをされた。とは言え、特段嫌だったわけではない。
その頃には、お腹を空かせたまま苦しむ彼女を可哀想とも思ったし、なんとなく生い立ちも察していた。
でも。
同情だけでもなかった。
いつの間にか、自分でも明言出来ない感情が湧いていた。
放っておけないのは確かだったけれど、共に過ごす時間は孤独だった僕に「生きる」理由を与えてくれた。彼女が少しずつ笑顔を浮かべるようになるのが嬉しかった。最初の頃こそぎこちなかった笑顔は、徐々に優しさをはらむようになっていた。それがたまらなく嬉しかった。
そうやって少し前から、そろそろかなって予感はあって。
先輩の僕を見る目が他人を見るよりずっと優しくなっていて。
目が合うのが、嬉しかったり気恥ずかしかったして。
僕も、同情もあったけれど、それだけじゃない気持ちも確かにあって。
それで、初めて、——して。
初めて吸血されて。
僕は彼女の花嫁になったのだった。
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