幕間2 ―雪音と紗凪― Interlude2

―雪音― The Second Part



 まったく衣蕗には呆れてしまう。初めての時の事を聞きたいだなんて。

 彼女が吸血が苦手なのはわかるし、協力はしてあげたい、とは思うけれど。私にだって羞恥心はある。


 初めて紗凪を吸血した日。


 思い出すと、なんだか顔が熱い。

 今でこそ、紗凪に愛されているとわかるけれど、当時は、決してそうではなかったし。


 あれは、果たして、軍施設へ来て幾度目の夜だったろう。

 紗凪のお陰で少しずつ互いを知り、彼女へ興味が湧いた。いえ、興味と言うには、もっと多くの感情を感じるようになっていた。彼女の事をもっと知りたいと思ったし、私だけを見て欲しいと思った。

 でも生まれて初めて感じる感情に付す名がわからなかった。

 そんな晩だった。


 

          *


 

 紗凪からは、「僕の血を吸ってもいいですよ」と数日前に言われていた。

 私はその言葉をどんな顔で受け取っていいのかすら、わからなかった。初めての感情だった。


「紗凪……」

 

 名を呼ぶと、紗凪があからさまに目を泳がせた。そして行き場を失った視線は足元へと落ちて行った。

 

「先輩……」

 

 そう言った声は小さくてかすれていて。

 その手を取って引き寄せた。視界に入る私の腕は棒切れのように細かった。紗凪のものと比べても随分と細く、それが恥ずかしかった。

 それでも〈吸血餽〉である私は最早ほとんど死ぬ事はない。一番可能性が高いのは、〈狼餽〉にでも襲われて一度に大量失血するか、再生不可能なほどの大怪我を負った時ぐらいだ。だからあれだけ自傷を繰り返したというのに、傷ひとつ残ってはいない。

 

 〈吸血餽〉として発症してから飢餓感はずっとあった。身体はもう人間の食事は受け付けない。それを埋めるには人間の血を飲むしかないのが本能でわかっていた。

 けれどずっとあった飢餓感とも違う。

 紗凪を抱きしめたいと思った。触れて、抱きしめて、微笑んで欲しかった。でもそのやり方がわからない。帝王学をはじめとして多くの学問を学んでいたというのに、人として人と繋がる方法など誰も教えてくれなかった。それまでの私は、人は使役するものだと思っていた。

 まだ人間だった頃、私の世話を焼くメイドはいくらでもいた。けれど、こんなふうに私を人として扱い、人として接してくれた人はいなかった。

 

 世話を焼きながら、彼女はよく身の上話をした。黙々と世話を焼くにも飽きたのだろう。

 祖母と二人、貧しい暮らしをしていた事。

 彼女から聞かされる事で、市井の暮らしの細々とした事を知った。花總の家にいた私の知らない事ばかりだった。

 それから、お祖母様が亡くなり身寄りがなくなった事。

 お屋敷勤めの働き口を得たものの、屋敷の主人に手籠にされそうになって怖くて逃げ出した事。

 どこの屋敷でも主人がメイドに手を出すのはよくある話だ。市井の話はさっぱりだったものの、それだけはよくわかった。

 屋敷や働き口を変えても同じ事の繰り返しだった。女手一つで生きていくのは、難しい世の中だ。

 役所に助けを求めて、軍を勧められた。その頃には所持金も底をついていた。自暴自棄になって軍に来たら、私に充てがわれたのだと言っていた。

 

 そういう話を、訥々と話してくれた。私の世話を焼きながら。

 けれどこの子はメイドではない。

 それ以前に一人の人間なのだと知った。

 少しずつ彼女に興味が湧いた。

 どうしたら彼女が微笑みかけてくれるのだろうか、と。

 そして、ある日彼女が言ったのだ。「僕の血を吸っても、いいですよ」——と。

 

 けれど、〈吸血餽〉にとって吸血衝動は性的欲求が伴う。事実彼女に対してそういった欲を抱かないわけではなかった。

 だが、それならば、浅ましく彼女を手籠にしようとした屋敷の主人どもと何が違うのだろう。

 おまけに一度吸血したら、その者は《吸血餽》なしには生きられなくなる。阿片常習者と同じだ。吸血の快楽なしには、生きられなくなるのだ。もう二度と市井には戻れない。

 だから吸血するわけにはいかなかった。

 それなのに彼女は「吸ってもいいですよ」と言った。祖母のいない市井に未練はないのだと言う。

 それでも吸うわけにいかない。曖昧に誤魔化していたが、洗濯物を畳みながら、なんでもない事のように再び彼女が言った。


「僕の血を吸ってもいいですよ」


 ちらりと互いに見つめ合って、そして、彼女が恥ずかしそうに視線を逸らした。ベッドに腰掛けるそのうなじは透き通るように白かった。


 ——血を、吸う。


 意識すると、衝動が増した。

 急激な吸血欲求が込み上げる。

 けれどそれを必死で抑え込み、目をつぶった。

 その時、彼女がもう一度言った。

 

「吸って、いいですよ。……僕で良ければ、ですけど」

 

 ごくりを息を飲んだ。

 緊張で喉がカラカラだった。

 

「でも貴女、」

 

 過去の話が過ぎる。彼女を傷つけたくはない。すると彼女が言った。

 

「……僕、もう帰る場所がないんです」

 

 それを聞いて思った。


 ああ、彼女は私と同じなんだ。


 この世のどこにも、帰る場所がない。


「……紗凪」

 

 名を呼び、もう幾度繰り返したかわからない葛藤の末に抱き寄せると、彼女の目が泳いだものの、その手は私の胸元を掴み返していた。

 震えそうになる手で、さらにしっかりと彼女を抱き締めた。私よりも頭一つ分は小さな身体だった。あたたかさに胸が高鳴った。これが、愛おしいという気持ちなのだろうかと思った。何もかもが初めての感覚だった。

 彼女が私を見上げた。

 その頬は赤らんでいて、よほどの勇気がいったのだと、わかる。

 

「紗凪……」

「……先輩……」

「……嫌だと思ったら、ちゃんと言ってちょうだい」

 

 見つめ合うと、もっと胸が苦しくなる。紗凪が小さくうなずいた。

 誰かの事を考え、こんなにも苦しくなるのは初めてだった。

 軍服の襟元のボタンを外した。それと同時に石鹸が香る。花總の家にいた頃は、あらゆる人と接しあらゆる香水を嗅いでいたというのに、これ程、良い香りだと思うものは他になかった。……ただの軍の支給品の石鹸なのに。

 白い首筋が見え、なんとも言えない感覚が湧き上がる。嫌がる事も、浅ましい真似もしたくないと思うのに、せり上がるものがあった。

 その時、彼女が私の手を掴み、自らの首筋に当てさせた。

 あたたかくしっとりとしていた。

 ぞわりとする。

 衝動が増すのがわかった。

 吸血衝動なのか、性的欲求なのか。わからない。愛おしいと思う気持ちとぐちゃぐちゃに混じり合う。


「……雪音、先輩……」


 名を呼ばれ、快感が増した。まだ何もしていないと言うのに。それは明らかに性的快感だった。


「紗凪……」


 指に触れる首筋の感触に、愛おしさが込み上げる。

 息を飲んで、彼女をベッドに導いた。と言っても実際はほとんど押し倒すような形だったと思う。彼女が丁寧にベッドメイクしてくれたベッドだ。

 兵舎の二人部屋は彼女のお陰で清潔に保たれていた。そのベッドに彼女を寝かせる。

 上着のボタンを外して行く。

 それからのぞいたコルセットの前開きの編み上げ紐を緩めた。私のコルセットは毎日彼女が着せてくれているというのに、私が彼女を脱がせるだなんて。なんだかおかしな感じがした。

 

「……舐めてみても、……いい?」

「……うん」

 

 その首筋に顔をうずめた。ピクリと彼女が震えた。

 石鹸と彼女自身の香りがする。毎日嗅いでいた香りだ。

 その首筋を舐めた。汗の味がしたが、それすら甘い。彼女の体液ならなんでも美味しそうだと思った。実際美味しく感じた。数ヶ月振りの「食事」だ。〈吸血餽〉にとっては血液だけでなく汗など体液ならなんでも美味に感じる。

 思わず夢中で舐めていると、彼女が身じろぎした。

 

「っ、」

「ごめんなさい、嫌だった?」

「え? っ、ちが。……違くて、……」

 

 そう言って黙り込んでしまう。

 嫌ならすべきではないけれど、どうもそうではないらしい。彼女が言った。

 

「その、……こういうの初めて、だから、……く、くすぐったくて……」

 

 そう言って顔を赤らめる。

 可愛いと思った。

 

「……嫌じゃなければ、もっと、いい?」

「…………うん、」

 

 真っ赤になって必死に頷く彼女。

 今度は襟元を大きく開け、汗の味を辿った。

 頸動脈を通って耳元へ。耳たぶをはみ、舌で耳の輪郭を辿る。

 

「……っ」

 

 くすぐったいのか、小さく震えている。

 

「可愛いわ、紗凪……」

 

 仕種だけで誰かをこんなに可愛らしいと思うなんて。胸がうずいた。自然と口を付いていた。

 コルセットに触れ、もう少し大胆に編み上げ紐を解いた。戸惑ってはいたが、抵抗する素振りはない。

 

「……触っても、いい?」

「っ、……うん」

 

 小さな声でうなずく彼女。少し浮いたコルセットを下にずらし、手を差し入れた。やわらかい。胸の先が当たる感触がして、ドキリとした。

 

「っ」

 

 驚いたのか、彼女も息を飲んだ。

 

「……嫌?」

「…………、い、嫌じゃ、ない、……けど、恥ずかしい、です」

 

 そう言って顔を背けてしまうから、手を引き抜き、その手で彼女の顔をこちらへ向かせた。

 

「……だめ。逸らさないで?」

 

 照れて真っ赤になった顔が可愛らしい。見つめ合ったまま、思わず囁いた。

 

「……キスしても、いい?」

 

 これは恋愛の情ではない、……と思う。吸血とは身体の部位に牙を立て血を吸うもので、必ずしも口唇の接触は必要ではない。無論、唾液にも旨味はあるけれど。

 それでもしたいと思った。

 少し驚きつつも彼女が頷いた。

 

「……はい」

 

 嬉しい。

 唇を寄せ、もう一度確認をする。

 

「嫌じゃない?」

「……はい」

 

 嬉しかった。胸が苦しい。嬉しくて胸が苦しくなる事があるなんて、初めて知った。

 

「紗凪……」

「んっ、」

 

 抱き寄せて、

 ……薄い唇にキスをした。

 やわらかくて、あたたかい。

 唇の間に舌を差し込み、深くキスをした。甘い。唾液が、甘い。血液のかわりに飲み込むと、甘みを感じると共に性的欲求が増した。もっと、欲しい。紗凪が。

 舌を絡める。

 

「んっ、」

 

 紗凪が鼻にかかった声を上げる。

 〈吸血餽〉にとっては人間の唾液も食糧の一つだが、人間にとって〈吸血餽〉の唾液は、性的興奮を高める。紗凪の目がとろりとするのがわかった。

 舌を絡め、吸う。

 舌で舌を舐めると、身体が震えた。

 手持ち無沙汰だった手をもう一度コルセットの中へ差し入れる。胸の先のとがりが、固くなっていた。

 

「んんん!」

 

 手のひら全体でやんわりと揉みながら、胸の先を指で転がす。

 

「っ、せんぱ、っ、ぁっ」

「っ、紗凪……っ、」

 

 反応のすべてが愛おしい。キスを交わし、唾液を交わし、胸のふくらみを揉むたび、互いに興奮が高まってゆく。キスも、手のひらに伝わる震えも、すべてに恍惚とする。

 もっと深く紗凪が欲しかった。

 

「せんぱ……っ、」

「……紗凪、吸っても、いい?」

 

 そう尋ねると、驚きで目を見開いたものの、ゆっくりとうなずいた。

 もう一度意思を確認するように見つめ合い、それから細い首筋に唇を寄せた。

 愛撫するように丁寧に舐める。《吸血餽》の唾液には鎮痛効果も含まれているから。……紗凪が痛くないように充分に慣らす。

 

「ん……」

 

 鼻から抜けるような甘い声。身体の奥が熱くなった。

 そして。


 ゆっくりと牙を立てた。


「んんっ!」

 

 スッと皮膚に突き刺さる感触がし、紗凪が震える。ゆっくりと牙を浮かせると、血が溢れて来た。甘い。汗よりも唾液よりも、甘い。

 それと同時に興奮が増した。

 溢れる血を舐め、飲む。興奮と共に、身体が満たされる感じがした。

 牙を完全に離し、浮き上がってくる血を飲んだ。今までのどんな食事よりも美味しかった。

 芳醇な香りと深い甘味。鼻にかかった紗凪の声。

 

「ん、っ、ぁ、せんぱ、あ、……んっ!」

 

 その声すら美味だ。小さな震えと相まって、興奮が高まっていく。

 

「っ、あ、……んんんっ」

 

 吸うほどに紗凪が身をよじる。コルセットから胸がこぼれる姿すら、愛おしい。

 もっと、欲しい。

 ——が、飲みすぎてしまう前に、なんとか唇を離した。

 まなじりに涙を浮かべた紗凪がこちらを見上げる。その時に、彼女が太ももを擦り合わせるのがわかった。

 ……まだ、夜は始まったばかりだ。

 すっかり乱れた彼女のスカートのホックに手を掛けた。


 

          *


 

 それから首筋だけでなく、彼女の様々なやわらかな部位から吸血をした。

 少しずつ。

 たくさん。

 気がつくと、着衣はなくなり、小さな噛み跡があちこちにあった。

 それも一日も経てば消えてしまうだろう。様々な事が本能でわかった。それでああ私は本当に〈吸血餽〉なのだなと自覚したのだった。

 彼女は疲れ果てて眠ってしまった。

 兵舎のベッドはシングルが二つだが、今日くらいは一緒に眠ってもいいだろうか。小さな花嫁の隣で。



 こうして私は本当の意味で《吸血餽》となり、彼女が私の《花荊》となった。

 彼女はあの日、帰る場所がないと言ったが、私があなたの帰る場所になれたらいいと、


――心から願った。

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