3 『忘れられない味~さばの味噌煮定食~中編』

 家は裕福だった。親が資産家だった為、特に苦労することはなかった彼――ユアンはとにかく優秀な成績を修めることを強いられる毎日であった。

 そんな彼の唯一の楽しみは、美食で心も腹も満たすことだった。美味しい料理やスイーツを食べることは彼の趣味となり、その為ならどんな苦労にも耐えられた。

 やがて事業に成功し、多くの企業の最高経営責任者となった彼は一つの場所に留まることのない生活を送る。そんな多忙の中、彼は出会った。


 ある時、船の遭難事故に遭い、ユアンはある島に流れ着いた。その場で途方に暮れていると、恐らく自分と同じように遭難した人物なのだろうと思われる、一人の少女の姿。

 目の前で横たわっている人物は、見たこともない衣装を身にまとった若い娘だった。長い黒髪、日に焼けた肌。きらびやかなアクセサリーを額や耳に着飾っているが、宝石類は本物ではないイミテーション、ガラス玉だと一目見てわかる。

 少女を見るなり、ユアンは小さな違和感を抱く。なぜ一般人であろう少女が、こんなところで倒れているのだろうか。商船に乗っていた誰かの関係者なのか?

 そんな風に色々と思索しながら、助けようか迷っていると、少女の意識が戻る。


「ん……」

「あ、その……、大丈夫ですか?」


 彼女が何者であろうと、今はもうどうでもいい。やはり遭難の道連れは欲しかった。

 自分一人だけでは、きっと正気を保てなくなるかもしれない。彼は意を決して、少女を介抱することにした。


 島の中央に見える巨木の存在に、この島が南諸島にあるオレオン島だと察したユアン。

 森の中を進むより、海岸線に沿って歩いて行った方が人のいる港町に辿り着けるはずだと考えた。

 謎の少女――サナとは、会話や意思疎通が可能だった。同じ船に乗っていたのかと問うが、サナはヨットに乗っていた際に大波にさらわれたと答える。恐らく事故のせいで記憶が混乱しているのだろうと察した。

 幸いなことに、サナの荷物が見つかった。大喜びしている少女の姿に、ユアンは不思議と温かい気持ちになる。

 そして二人は島民に助けを求める為、海岸を歩いて行くことにした。


 サナのリュックには、ユアンの知らないものがたくさん入っていた。

 ライターと呼ばれるものが最も驚いた道具で、夜間に焚火をする為のものとして重宝する。他にも小型のライトや、虫よけスプレーなど。

 好奇心旺盛なユアンは物珍し気にそれらに注目したが、ユアンの心を最も揺さぶったものは、サナが非常食にと持って来ていた「缶詰」と呼ばれる代物だった。

 サナが缶詰を開けて、それをユアンに手渡す。中には調理された魚の身が入っていた。まずは香りを嗅いでみる。食欲をそそるかぐわしい匂いだ。少々行儀が悪いが、カトラリーまではさすがに用意出来なかったようなので仕方がない。


「……いただきます」


 指で身をつまみ、口に運ぶ。食感などはこれまで食べて来た魚そのままだ。

 しかしユアンは感動のあまり、興奮せずにいられなかった。

 美味い! ユアンが生きて来た中で食べたことのない味だったのだ。魚の味だけではない、味付けされた調味料に感動していた。濃い味付けだが、くどくない。

 他にも何やら入っているようだったが、結局どんなものが入っているのかは不明のままだった。


 綺麗に完食したユアンは、この商品をいつか必ず入手しようと心に決める。

 その後、二人は無事に保護された。自分の居場所がわかっていないサナが途方に暮れていたので、ユアンは一時的にサナの身柄を保護することを決意する。

 ほんの数日の間だったが、お礼としてリュックにあった非常食をご馳走になったユアン。

 数日経過するとサナは故郷や家族が恋しくなり、二ホンに帰りたいと呟いていた。

 彼女の為に必死で世界地図を広げて二ホンという国を、都市を探すが結局見つけ出すことは出来なかった。


 ある日突然、見知らぬ人物がサナを迎えに来たと訪ねて来た。

 それらしいことを口にしていたが、二ホンのことを知っていた彼らにサナは喜んでついて行ってしまう。

 ユアンはわけがわからず注意を促すも、サナは「テンイ事故に遭ったみたい」と言ってあっけらかんとしていた。

 最後に感謝の言葉を述べて、サナは帰っていった。

 ほんの一週間だけの、まるで夢でも見ていたかのような数日間。

 サナという人物が本当に実在していたのかどうかすら、ユアンは不安になる。

 しかしサナに懇願して手に入れた缶詰。

 すっかり中身はたいらげてしまったが、綺麗に洗って保管していたユアンは缶詰を見る度に、あれが夢ではないことを噛みしめる。

 そして思う。もう一度、この缶詰を食べたい。

 九死に一生を得て食べた、奇跡の……思い出の味を、もう一度。


 ***


 老人がしみじみとした表情で語り終えるや否や、コックが我慢ならんと言わんばかりに声を張り上げた。


「なげえええ!」


 老人の思い出話はかれこれ一時間弱。しかも老人の語り口調が元々ゆったりとしている……ということもあり。

 おっとりとしたマーヤや、営業で顧客の長話に付き合うことに慣れている諏訪部ならともかく、数分で終わるものかと思っていたコックが思わず絶叫するのも無理はない。


「つまりその時に食べた料理をもう一度食べたい、という要望なんですね?」


 こくこくと頷く老人に、諏訪部は頭を悩ませる。話を聞いた限り、そのサナという人物が鍵だということはわかるが。諏訪部はもしやと思い、温かいお茶を淹れてもう少し老人に待ってもらうことにした。

 厨房へ戻って三人が話し合う。コックはすっかり面倒になってしまった様子で、カウンター席に突っ伏してしまった。


「ご老人の言うサナ、という女性には心当たりがあるかもしれません」


 唐突に出て来た諏訪部の言葉にマーヤとコックは驚愕する。「知り合いだったんですか?」と問うマーヤに「いや、何十年前の話だと思ってんだよ」とすかさずツッコむコック。

 諏訪部は両手で制して「そうじゃなくて」と前置きした。


「事故ですよ。ごく稀に異世界へ行き来する為の装置を介さずに、何も知らない一般人が異世界へ迷い込んでしまう、という転移事故があるんです」


 そういった突発的な転移事故は、主にトラブルに巻き込まれた時に起きやすいという。例えば交通事故に遭った瞬間、自然災害に巻き込まれた瞬間など。

 今回のサナに関しては、老人の証言と多少食い違う部分があったことを指摘する。


「彼女の持ち物からして、地球出身であることはまず間違いありません。日本という国名は他の世界でまず聞いたことがありませんから」

「それじゃあお客様が食べたい料理が何か、それもわかったりしますか?」


 手がかりが見つかったとばかりに喜ぶマーヤが食い気味に訊ねるも、それに関してはまだ難しいことを観念する。缶詰は日本特有のものではない。世界中に存在するものだ。特定するにはまだまだ老人からヒントを得る必要があるだろう。

 そこまで意見がまとまって、諏訪部は改めて老人が求める缶詰がどういったものか聞いてみた。すると老人は肩にかけていたバッグの中から、よほど大切な物なのか。袋の中からさらに丁寧に包まれた紙包みを開けていく。現れたのは――。


「サナが持っていた缶詰じゃ。唯一これを手掛かりに方々探し回っておるのじゃが……」

「これはっ!」

「スワベさん、これが何かご存知なんですねっ!?」

「もったいぶんな! さっさと言え!」


 へなへなと腰が抜けたように床に座り込んだ諏訪部が、力なく答える。


「……さばの缶詰ですね。それも味噌煮……、約束された味ですよ……」

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