2 『忘れられない味~さばの味噌煮定食~前編』
お店のチラシのミスで二人が動揺していると、一人だけ他人事よろしく冷静に来客用の椅子に腰かけたまま、コックが客である老人の存在を改めて二人に教える。
「お客さん、ほったらかして大丈夫かー?」
「え?」
振り向くとそこには先ほどの小さな老人が震えながら、杖をついて立っていた。しわくちゃになった顔はすっかりまぶたが垂れ下がってしまい、開いているのか閉じているのかすら怪しい両目になっている。
真っ白い口ひげはまるで傘が口を覆い隠すような形で伸びているが、ひげを伸ばし放題にすることなく綺麗に整えられている。そして小柄な老人の体のサイズに合わせた特注品であろうスーツは、とても生地が良さそうなものに見えた。
身なりからしてわかる通り、そこらの一般庶民が身に着けられるような恰好ではなく、明らかにいい暮らしをしていそうな感じの老人だった。
客をずっと待たせていたことに気付いたマーヤは「ひゃっ!」と声を上げて、すかさず接客に戻る。諏訪部もまた背筋を伸ばして営業モードに入り、何度も頭を下げて謝罪した。
ただ一人コックだけは、椅子に腰かけテーブルに肩肘ついたまま。来客第一号だというのに、姿勢が悪いことこの上ない態度だった。
「も、申し訳ありませんでした! 改めまして、えと……いらっしゃいませ!」
「ここで飯は食えるんかいのう?」
「もちろんですっ! えっと、あっ……! お席へどうぞ!」
経験のない接客にパニックになりながらも、なんとかこなそうとしているマーヤ。これでも一応オープン前日に接客の練習は散々したつもりだった。それでも本物の客相手に、ただでさえ他人とのコミュニケーション不足のマーヤが、すぐに対応出来るはずもない。
それでもマーヤの一生懸命さに、諏訪部はまるで我が子が巣立つ親のように温かい眼差しで見守る。そんな諏訪部のとんちんかんな親心に、コックは呆れて苦笑いしていた。
ちょこんと椅子に座った老人に、マーヤは練習した通り説明をする。
このボナペティ食堂は、この世界に存在するどの飲食店とも異なる。そもそも使っている食材が全て、この世界に存在しないものばかりだからだ。
「こちらの食堂では、秘境ジパング産の食材を提供させていただいてます。ですので、料理名と写真だけでは味の想像が難しいと思っています。そこで当店では、お客様のご要望に沿ったメニューを提供することにしています」
マーヤは姿勢よくまっすぐに立ち、両手を前に添えながら緊張しまくりの笑顔で説明する。メニューに関しても全員で考えた結果の提供方法だ。
とにかくこの世界で馴染みのない料理名や食材名などを、何も知らない客に言って聞かせたところで、すぐに理解出来るはずもない。
それならいっそのこと、店に食事をしに来た客が今なにを食べたいのか聞いて、それを元に料理を作ってみるのはどうだろうか、ということになったのだ。
もちろんこの方法は、満員御礼な店では到底こなせない提供方法である。一人一人に聞き取りをする時間も、店員の人数も圧倒的に少ない。
それならば開店したばかりで、誰しもが謎の食堂だという認識を持ち、なおかつ足を運ぶことを躊躇うという想定をした、現時点でしか出来ない方法を試してみようということになった、というわけだ。
きっとマーヤも諏訪部も、オープンしたての店には客がわんさか訪れるものだと考えていただろう。コックはそう予想していた。
しかしこの世界では、食文化に対してそこまで探求心を持った人間が少ないことを、コックは知っている。
見たことも聞いたこともない食材と料理を出す店と謳われても、珍しい味を求めてやって来る人間は、美食家や金持ちだけだ。そしてマーヤが住んでいる街に、そういった人間が数少ないことも調査済みだった。
よってコックは、知名度が上がるまで客はほぼいないものと思うように忠告してある。だからこそ、この提供方法に落ち着いた。マーヤも諏訪部も、未だにその説を完全に信じているわけではなさそうだが……。
(開店時刻が夜だったからといって、店の様子を見に来ない人間が一人もいない。その時点でもうお察しなんだよなぁ……。プロの言葉は信じるもんだぜ?)
そんな風に思いながら、コックはただ遠目で二人の接客を見守ることに徹した。
二人が懸命に食堂のコンセプトを説明していると、老人がおもむろに呟く。
「あの食感は、多分魚……」
「え」
老人が明後日の方向を見つめながら、つらつらと要望らしき言葉を述べていく。
「かなり脂が乗っていた気がする……。あと味付けが濃い……。パンに合うような気はするが、あの時は別の何かで食が進んだんじゃが。はて、あれは何だったかのう?」
「え……っと、過去に食べたことがあるお料理……でしょうか」
マーヤが首を傾げながら、老人が言った内容を急いでメモしていく。
確かに「今、食べたいもの」を聞き取りして、それに沿った料理を提供する旨を伝えはしたが。ここまで具体的なものとなると、もはや創作料理を作るというより明確な既存の料理であることを諏訪部は察した。
「お客様、ご注文のところ失礼いたします。私、当店のサポーターを務めております諏訪部という者です」
「ほあ?」と、声をかけた人物に向かって老人が初めて顔を向けた。
おろおろし出したマーヤの助け舟に、諏訪部が割って入る。しかしそれはマーヤが困っていたから、というだけではない。諏訪部に思うところがあっての割り込みだった。
「お客様のおっしゃるお料理に関してですが、どういった経緯で食されたのかお伺いしても?」
「……あれは何十年前だったか」
そう切り出した老人の言葉に、諏訪部はコックにアイコンタクトを取る。それに応じたコックは頷き、老人と食卓を囲むような形で全員が席に着いた。
ただ一人マーヤだけは「え? え?」と戸惑いながら、諏訪部に促される形で着席。男二人の脳裏を駆け巡ったのは「長話に付き合わされる」――そう直感した故での瞬間的行動だった。
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