1−11 『生きる目的』

 ーー半年前。

 諏訪部がマーヤの住む町ウィスタリスへ移住することを知って、精神的な意味合いで活力に満ち溢れていた。

 マーヤは長くベッドの上で過ごしている。そのほとんどが眠った状態ともなれば、教育面だけでなく外の世界に関する情報が遮断されていたようなものだ。

 他人との交流の少なさ、会話不足、外部に関する情報があまりに不足している為に、文字通りマーヤの時間は六歳の頃から止まっているような状況だった。

 そのせいで精神的にも幼いまま、まだ満足に受け答えすることは出来ないが、今のマーヤはとにかく自分のことで精一杯。それは致し方ないのだが、問題はそんな状態のマーヤのことを「誰一人として問題視していない」ことにある。


 人はいつまでも、純粋なままではいられない。


 何も知らない純真な子供のままのマーヤは、いずれその現実の残酷さを突きつけられることになる。

 そして何の刺激も受けて来なかったマーヤに、それを乗り越えるだけの心の強さは備わっていない。


 ***


 しばらくは同じことの繰り返しだった。

 朝、マーヤが目覚めた頃にはすでに世話係が、部屋の換気の為に窓を開けて手早く掃除をする。その最中にマーヤが目覚め、挨拶をしてからメイドが食事の準備をするようコックを呼びに行く。

 挨拶といったコミュニケーションは、マーヤがまだ満足に声を出せないので目線だけで行われる。それがマーヤに関わる者達にとって、当たり前の交流の仕方だった。

 しばらくするとコックがドアをノックして、すぐさまドアを開ける。マーヤはぼんやりとしたまま、目線や首だけを動かして辺りを見回す程度しか出来ない。

 起き上がる動作は、まだ一人では出来なかった。体を起こすという簡単なことでさえ、マーヤにとっては疲労を伴う。


(起き上がる、ただそれだけのことなのに……。思ってたよりお腹の力を使う動きだなんて、知らなかったな。まだ全身に力が入らなくて、手足を少し動かすことしか出来ない。これも全部、運動して来なかったせいなのね)


 運動が生きる為にどれだけ大切なことなのか、思い知らされる。しかし栄養を摂らなければ運動するエネルギーを作れない。だから今のマーヤに出来ることは、今は運動なのではなく食べることだった。

 コックが持って来てくれたおかゆを見て、マーヤの表情に笑顔がこぼれる。もう怖がる必要はない、安心して食べることが出来る料理。それがどれだけ嬉しいことか、素晴らしいことなのか。


「今日のおかゆも十倍がゆだ。だけど昨日よりもう少し味付けしてみた。俺は味見してないからわかんねぇけど」


 それを聞きたかった。

 コックがおかゆを作ってくれることになって、何度か耳にしている「味見をしていない」という理由。

 マーヤの常識が今の世の中でも通じるのであれば、料理をする時は必ず味見をするものだ。味の微調整……。コックはそれをしていないと言う。

 頭の中ではコックに聞きたいことが山ほどあるが、それを声に出して伝えられないのがもどかしい。筆談すら出来ない自分が、情けないと思う。

 それらを解決させる為には、やっぱり食べるしかない。

 最初こそ世話係の手を借りなければ食事の準備が出来なかったけれど、今ではコック一人でやってくれる。どうして世話係にさせないんだろうと疑問に思っていたが、コックが昨日教えてくれて納得していた。


「スワべさんがまた今度来た時、世話係がいない方がいいだろ。色々と根掘り葉掘り聞かれて、スワべさんの存在が親に知られるの、俺もごめんだし」


 諏訪部から聞いていた。マーヤが食べている食材の出処を、出来るだけ両親には知られたくないこと。思い返してみれば、マーヤが『究極シェフ』のギフテッド持ちだと知ってからの……両親の変わりようを。

 食に対しての執着がすごいことは、マーヤもわかっていた。もし諏訪部の存在が両親に知られて、それで食材がもらえなくなるどころか諏訪部に会えることすら出来なくなってしまったら……。

 マーヤはそんな悲しい結末を望んでいない。だからコックがすることは、実質マーヤの為になるのだと、そう解釈するようにしていた。


「あと何食かで、こないだもらったお米が無くなる。つまりそろそろスワべさんから連絡が来るか、こっちから喚び出すかになるな。それまでにちょっとでも回復しとけ。あの人に感謝の気持ちがあるならな」


 コックは言い方はぶっきらぼうで雑だけど、言ってることは意外に優しかった。見た目は怖いお兄さんという雰囲気だけど、マーヤは世間のことをよく知らない。優しくされれば、その人は優しい人なのだと。そう安直に解釈してしまう程度には純粋だった。


(コックさんの言う通り、少しでも元気になって……その姿をスワべさんに見てもらおう。あなたのくれた食べ物で、私はこんなに元気になりましたって。伝えられるように……)


 マーヤは一つ、誤解をしている。

 諏訪部が提供している材料、そしてこれから提供する食材は全て……無償ではない、ということを。


 ***


 嬉しいことがあった。

 コックが言った通り、お米が尽きてしまう前に諏訪部と会えてマーヤは嬉しくてたまらなかった。

 命の恩人である諏訪部に再会出来ただけでなく、彼がマーヤの住む町に住むことになったと聞いて、舞い上がるほど喜んでいた。元々彼がどこに住んでいるのか、その辺の詳しいことはマーヤにはわかっていないが。少なくともすぐに会いに行けるような距離ではないだろうな、という感覚だけはあった。

 召喚の儀式で喚び出した彼が、一体どこから来たのかわかっていない。聞けば召喚はそう何度もしていいものではなさそうな雰囲気だったので、それもまた元気になって質問出来るようになってからのお預けとなっている。

 それでも諏訪部がすぐ側に住んでくれるという安心感は、マーヤの意欲を大いに掻き立てた。

 コックは新たに仕入れた材料を使って、色んな種類のおかゆを作ってくれる。そして数週間後には、おかゆの食感がだんだんと形のわかる程度になっていた。少しずつ、あごを使って咀嚼する回数が増えていってる。

 それに伴い、マーヤの体にも様々な変化が現れていた。


「すごいです、マーヤ様! もう自分の力で立てるようになったんですね!」

(歩くのは、まだだけど……。フラフラして何かに掴まっていないと、そのまま倒れそう。掴まり立ちをする赤ちゃんって、こんな感じなのかな……。私、当然だけどその頃の記憶が全くないや)


 今まで出来なかったことが少しずつ出来るようになっていく度、両親や世話係の人達がマーヤを褒めては嬉しそうに涙を流す。これまでずっと心配ばかりかけ続けてきたみんなが、そうやってマーヤを大切にしてくれていることが実感出来た。

 だけどそんな中、自分のことで一杯一杯だったマーヤがふと、思い出したことがある。

 両親以外にも大切な存在が、マーヤには確かにいた。


(そういえば……、私がお料理を食べられるようになって、こうやって起き上がったり立ち上がったり出来るようになったのに。まだ一度も、そう……一度も顔を合わせていない……)


 同じ日にマーヤと共に産声を上げた、大切な片割れ。

 そして大切な弟の存在……。


(カーラ、ニア……。私が少しずつ健康を取り戻していくようになって、お父さんやお母さんと同じように喜んでくれると思っていたのに……。まだ一度も顔を見ていないなんて……。どうして……?)


 まだ長い言葉を紡ぐことが出来ないマーヤは、母親に片言で伝えたことがある。

 カーラとニアはどこ?

 しかし母親は少し困ったような顔をするだけで、言葉を濁らせるようにまた別の話題へと変えようとしていた。マーヤに何か言いにくいことでもあるのだろうかと、少し不安になる。

 もう屋敷の中にはいないのだろうか? 寮制の学校にでも入ったのだろうかと思ったこともあったが、廊下を走るメイドが大声で「カーラ様ー! どこですかー!? お友達がお見えですよ!」という声が聞こえたことがある。

 時々、そんな掛け声が聞こえてくるので二人ともちゃんと屋敷に住んでいるはずなのだ。

 不安になる。

 もしかして、二人は自分のことを避けているんじゃないだろうか、という不安。

 長い間、まともに会うことすら出来ず、会話も不可能。母親のように寄り添ってくれた記憶は、マーヤにはない。

 自分がどんどん弱っていって、命の灯火がか細くなっていった頃合いに、姉も弟も自分のことを見捨てたのではないだろうか。そんな孤独感がマーヤを襲った。

 どんなに考えても、自分はこの部屋から自分の力で一歩たりとも出て行くことは敵わない。二人に自分の足で会いに行くことすらままならないのだ。

 そんな不甲斐ない自分が、無能な自分が嫌だった。

 

 カーラに、ニアに会いたい。

 会ってまた昔のように、楽しくお喋りして、美味しいお菓子をみんなで食べたい。


 諏訪部に会いたいという理由以外にも、マーヤに目的が出来た。

 マーヤ自身の力で叶える為に。


 その為には毎日しっかり食事を摂って、リハビリで体を動かして、発声練習をする。

 全ては大切な人に会う為に、普通の暮らしが出来るようにーー。


(他の余計なことは考えない。滅入ってしまうから。だから……)


 マーヤは目の前にある、温かくて美味しそうな食事に目をやる。

 ほかほかで粘り気のあるおかゆに、あごの力を鍛える為に用意された「たくあん」という黄色い「漬物」という一品が添えられた食事。

 熱を冷まし、おかゆを口に含んで咀嚼する。飲み込んだら、今度は薄くスライスされたたくあんを半分噛み切り、コリコリとした音を立ててあごを使う。

 少し酸味の効いた味がクセになりそうで、これがまたおかゆと一緒の咀嚼したら美味しさが増した。


(たくさん食べて、まずは健康を取り戻そうーー!)

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