1−2 『姉と弟』

 その日は朝から、屋敷中が騒がしかった。世界的に貴重な存在である『究極シェフ』のギフテッドを持つコックが、ボナペティ家を訪れる。それだけでも十分大きな出来事なのだが、両親がそわそわして待ち構えている一番の理由は、もちろん娘のマーヤのことだった。

 もう六年間もベッドの上で過ごし、水以外に栄養剤の点滴と魔法による睡眠によって、細々と命を長らえてきたマーヤ。コックの作る料理によって、もしかしたらマーヤはまた食事することが出来るようになるかもしれない。そう思うと居ても立っても居られなかったのだ。

 コックに失礼のないよう、屋敷の中はいつも以上に清潔にし、キッチンの食材もありとあらゆるものを用意させた。決して不足があってはならない、とでも言うように。全国展開しているレストラン経営者でもあり、料理研究家でもあるボナペティ夫妻は、自分達が知る限りありとあらゆる調味料も用意させた。どんな料理でも作れるように、どんな調味も可能とするように。

 使用人がバタバタと多忙を極める中、二人の子供は玄関ホールが吹き抜けとなっている二階の手すりから、その様子をつまらなさそうに眺めていた。一人はマーヤの双子の姉カーラだ。煌びやかなものが好きで、家の中にいても常に小綺麗な格好をしている。美しい青い髪はハーフアップに結われ、動く度にウェーブがかったロングヘアが波打つ。

 その隣にいるのは、双子の弟ニア。彼もまた双子と同じように青い髪をしている。猫っ毛のサラサラしたショートヘア、あまり日に当たっていないことが窺えるほど白い肌の色、くりくりとした瞳は階下で走り回る使用人を目で追っては、小さくため息をついていた。


「どう思う? ニア」

「――何が?」


 二人は多少、仲が良かった。マーヤが寝たきりの状態になってから、姉弟は自分達だけのようなものだ。特に馴れ合うこともないが、ニアにとって姉はカーラだけだと思っている。寝たきりの姉マーヤを思い出して、ニアは渋い顔をしながら呟いた。


「あれが回復するようには思えないけど……。でも究極シェフが作る料理は、どんな料理も美味にしちゃうんだろ? アレルギーさえなければ、大嫌いだった食材で作った料理ですら、世界一美味しいって思わせるレベルのギフテッドだって、そう聞いたことあるけど」


 実際どうなのかはわからない。その目と舌で確認したわけではないから。

 ニアは双子より四歳年下で、現在十二歳の少年だが、年齢よりずっと利口だった。時にそれは皮肉とも取れるが、ニアが言う言葉は常に合理的で理屈っぽい。だから究極シェフの噂を聞いただけで、その実力を完全に信じているわけではなかった。

 

「これでまた、父さんや母さんががっかりしなけりゃいいけどね」


 それだけ言うと、ニアは手すりから離れてキッチンの方へ向かう。

 黙って歩き出すニアに、カーラが呼び止めた。まさかほんの少しでもマーヤに興味が湧いたのだろうかと、カーラはそう思ったからだ。自分のように、マーヤに対して無関心でいてくれるのは、ニアだけだというのに。 


「どこへ行くのよ」

「どんな物を揃えているのか、気にならない?」


 振り返り、姉も誘う。しかし姉の表情から、来る気がないことを察する。――またこれだ。

 わかってはいたけれど、自分と違って姉は特に徹底していた。


「わかった。好きにしなよ」


 姉カーラは、マーヤのことが大嫌いだ。ニアはずっと側で見てきたからわかる。それもそのはず。だって自分も大嫌いだから。

 キッチンへ向かう際、姉マーヤの部屋の前に差し掛かった。ふと、ドアを見つめる。特に鍵がかけられているわけではないが、限られた者しか入ってはいけないようになっていた。衰弱しているマーヤの体調を慮るためでもある。

 そっとドアノブに手をかけて、ニアはゆっくりとドアを開けた。そこはとても質素な部屋だ。必要な物以外、何もない。物が増えたらその分、埃が積もる場所も増える。掃除を簡略化するために、そして何よりマーヤの健康のために。

 部屋の壁際に頭を向けて、ベッドが置かれている。そこに彼女は眠っていた。静かに寝息を立てながら、開けられた窓のカーテンが揺れては、マーヤの前髪も僅かに揺れる。その様子を、ニアはじっと目を凝らして見つめる。


「……っ!」


 しっかりマーヤの顔を確認する前に、ニアは慌ててドアを閉めていた。ドアに背をつけ、そのままずるずると床に尻餅をつく。自嘲気味に笑いながら、全身が震えていることに気付いた。


「ムカつく……」


 まだ克服できていなかった。マーヤが怖い。ニアは歯噛みするように、悔しがる。怯えている自分が情けなかった。


  あれはマーヤが寝たきりになって、二年ほど経過してからだ。ニアが八歳の頃に、どうしてもマーヤが恋しくなったニアは、一人でこっそりと会いに行ったことがあった。それまでは普通に、姉弟三人とも仲が良かった。全てはマーヤが食事できなくなってからだった。その日から全てが狂い出していたのかもしれない。

 優しかったマーヤ。笑顔が素敵だったマーヤ。弟の自分を心から愛して、とても大切にしてくれたマーヤ。突然会えなくなった寂しさから、ニアは両親に止められていたにも関わらず、内緒で会いに行ったのだ。

 今と同じように、ゆっくりとドアを開ける。窓から差し込む太陽の光の中、ベッドに横たわる愛しい姉の姿があった。

 やっと会えた思いから、ニアは泣きそうになりながらマーヤの名前を呼んで、そっと近付く。するとそこで眠っていたのは、ニアが知っている姉じゃなかった。ニアは悲鳴を上げた。恐怖とショックで、その場に尻餅をついた瞬間に、ニアは失禁してしまった。床に尻餅をついたまま、じたばたするように後ずさる。――誰だ! お前は誰だ!

 ベッドで横になっていたのは、骨と皮だけの痩せ細った骸骨だった。ニアの悲鳴で目が覚めて、落ち窪んだ眼窩からギョロリとした目玉がこちらを見る。栄養失調でガリガリになったマーヤは化け物だった。


 それからニアがマーヤに会いに行くことはなくなった。もはやトラウマに近い。彼女に会うのが怖かったのだ。またあの恐怖が蘇るのかと思うと、心と体が拒絶反応を起こす。すっかり心を蝕まれたニアは、姉マーヤの存在をかき消そうとした。優しくて可愛かった姉は、骸骨になって死んだのだと。そう自分に言い聞かせて、今もなお美しさを保っているカーラを姉として慕うようになった。

 双子の姉の性格は雲泥の差があったが、それでも恐ろしい形相をしたマーヤより万倍マシだとでも言うように、ニアはマーヤの存在を否定する。

 ふんと強がるように鼻を鳴らしながら、震える膝に喝を入れて、キッチンへと向かった。


 ***


「あなた、どなたですの?」


 世界的に有名な、貴重な存在であるコックが来たのだと思った。呼び鈴を聞きつけて、ボナペティ夫人が我先にとドアを開けて出迎えると、そこには金髪のツンツンとした髪型をした若者がむすっとした顔で立っている。

 ただの訪問者かと思って、出たセリフが先ほどのものだ。夫人の冷たいあしらいに、金髪男は不貞腐れた顔で答える。


「ここ、ボナペティさんの家っすよね? 俺、グロモント伯爵に言われて来たコックなんすけど」


 それを聞いて、玄関ホールで待ち構えていたボナペティ夫妻と、その他大勢の使用人達は目を丸くした。身長は高くも低くもない、平凡な体格。金髪に、目つきの悪い顔立ち、頭をボリボリと掻きむしりながら立ち尽くしているこの男が?

 どこからどう見ても不良、良くない噂をプンプンさせていそうな、素行が悪そうなこの若者が?

 本当に世界的に有名な、あのコックだとでも言うのだろうか。


「あ、違うんならいいんすけどね。十分な日数かけてもいいって伯爵に言われてるんで、この街を観光してから帰っても俺は別にいいんすよ」

「すまなかった、君! 失礼な態度を許してくれたまえ!」

「まさかあなたのような、いえ……。あなたが『究極シェフ』のギフテッドを持つコックさん、……なのかしら?」


 取り繕うような笑顔で出迎えてきた夫妻に、コックはぶっきらぼうに答えた。


「そっす。『究極シェフ』のギフテッド持ち、ボリソヴィチ・オフチェンコフでぃーす」

「長っ!」「変な名前っ!」「今なんて?」


 そのまま踵を返して帰ろうとした彼を、一同全員で引き止めたことは言うまでもない。

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