1−1 『憐れな眠り姫』

 少女は、一人静かに眠っている。室内の灯りを点けていなくても、窓から差し込む朝日が部屋をうっすら明るくしていたからだ。ほんの少しだけ開けられた窓からは、時々さわやかな風が吹き込んで来る。麻のカーテンをふわりとなびかせ、ベッドに横たわる少女の前髪をそっと優しく撫でた。

 少女の部屋はとても簡素だった。淡いピンク色のカーテンと、花柄で統一されたベッド。それ以外にあるのは、医療器具が並んでいる引き出し付きの棚と、今も少女の腕に栄養剤を点滴するために吊り下げられている点滴スタンド、そして丸椅子ひとつのみ。この部屋は確かに少女の部屋だが、十六歳の少女らしい家具の類はほとんどなかった。

 天井も壁紙も全てが白を基調とし、床はきれいに磨かれたフローリング。衣類用のクローゼットも、ドレッサーもない。少女が住んでいるこの家が、貧しいというわけではない。どちらかといえば、彼女の家は裕福な方だ。大きな屋敷に、十分な広さのある私室があってなお、このように簡素な部屋。――もちろん両親に愛されていないわけでもない。

 少女はもう何年も、同じベッドで眠り続けていた。むしろ両親にとても大切にされ、今も眠り続ける娘の将来を案じて、ボナペティ夫妻は心を痛めているほどだ。


 両親は毎日のように娘マーヤの部屋を訪れては、根気よく声をかけ続けていた。マーヤは意識不明の重体というわけではなく、本当にただ眠っているだけなのだ。ただその体は目を覆いたくなるほどに痩せ細り、十六歳の若々しい肉体とはかけ離れた状態となっている。頬はこけ、全身が骨と皮だけの……まるで骸骨かミイラのような姿をしていた。

 声をかけられると、マーヤは必要最低限の行動しかできない。目を開ける、返事をする、それだけだ。過度な行動はエネルギーを消費してしまう。今のマーヤに必要なのは、とにかく食事療法による栄養状態の確保だけなのだが……。それが不可能であるために、マーヤは明日をも知れない命のまま、今日もなんとか息をしている。


「おはよう、マーヤ。ご機嫌いかがかしら」


 丸椅子に腰掛けた女性が、マーヤに優しく声をかける。晴れ渡った青空のように、深く青い色の髪をした母エブリンがマーヤの髪に優しく触れた。栄養が行き届いていないマーヤの青い髪にツヤはなく、枝毛だらけのパサついた髪はその成長をやめてしまい、今はマーヤの肩に届くほどの長さしかない。マーヤはゆっくりと目を開けて、すぐそばで微笑む母の顔を見つめた。口の端をわずかに上げて、笑顔で答える。声はあまり出せない。話そうとしても声は蚊が泣いたように弱々しく、かすれてしまって吐息ほどにしか相手に届かないためだ。それに「話す」という動作も、マーヤにとってはエネルギーを消費する。何年も食事をすることができなくなっているマーヤにとって、会話すらままならなかった。

 もちろんそんなことは承知の上だ。エブリンは、続けてマーヤに朗報を伝える。


「聞いてちょうだい、マーヤ。今日ね、うちにお客様が来るの。誰だと思う? お医者様じゃないわ。もっとすごい人!」


 話しているエブリンの方が、喜びのあまり今にも泣き出しそうになっていた。その表情は希望に満ちあふれている。マーヤはただじっと、母の表情を見つめ、話す言葉に耳を傾けていた。  


「お父さんがね、やっと伯爵に約束を取り付けてくれたのよ。グロモント伯爵って聞いても、マーヤは知らないわよね。世界的に有名な美食家で、世界に数人しかいない『究極シェフ』のギフテッドを持っているコックさんを一人、専属として雇っている唯一の貴族なの」


 エブリンの口から出てきた『究極シェフ』という単語を聞いて、マーヤの眉がピクリと動いた。それを見たエブリンは、涙をこらえるように笑顔で話しかける。


「そうよ、あなたと同じギフテッド。作った料理が全部美味しくなっちゃう不思議な能力! その方が、今日うちに来てくれるようになったの! 今までボナペティ家専属の一流のコックですら、マーヤが食べられる料理を作ることはできなかったけれど。神様から授けられた最高峰のギフテッド『究極シェフ』を持つコックさんが作った料理なら、きっとマーヤも食べられるわ! 遅くなってごめんね、マーヤ。六年間も……、水以外に何も食べられなくなって……辛かったでしょう?」


 両親は気付いていないが、マーヤ・ボナペティは呪われていた。十歳の頃から、水以外の食物全てが食べられなくなってしまったのだ。口にしても味がしない。無理やり飲み込もうとすれば、反射的に吐いてしまう。摂取できるものが水だけになってから、マーヤは栄養剤を点滴するしか生命を維持することができない体になっていた。

 最初は単なる好き嫌いで、食べることを拒絶しているものかと両親は思った。しかしマーヤが大好物だった料理やお菓子まで、匂いを嗅いだだけで吐き気をもよおし、食べ物の一切を全く受け付けないことに気が付いた。

 すぐさま病院へ駆け込んだが、マーヤの体には何の異常も見られないと診断される。最終的に「摂食障害」「味覚障害」という病名が付けられた。後天的に発覚することも珍しくないので、そう診断された直後に両親は泣き崩れる。

 だがその嘆きは、マーヤが「一切の食事ができないこと」が一番の理由ではなかった。


 ボナペティ家はレストラン経営をしており、一代で財を成すほどの敏腕オーナーだ。両親共に美食家であり、料理人でもあった。作ること、食べることが大好きで、いつか世界中に自分達のレストランを作って、家族で世界中のあらゆる料理を食べようと夢見ている。そんな時、子供たちにどんなギフテッドが授けられているのか、という点に注目した。

 この世界アレバルニアでは、誰もが何かひとつ、天より授けられし才能を持って生まれてくるといわれていた。それは天賦の才から、極めて平凡な才まで、それこそピンキリである。当たり外れの大きなものであるために、子供が三歳を迎えた頃合いに親が教会へ連れて行き、ギフテッドを調べてもらう……というのが、この世界の通過儀礼となっていた。

 そしてマーヤが三歳の頃に発覚したのが、料理にまつわるものの中でも最高峰に位置する『究極シェフ』のギフテッド。それをマーヤが授かったと聞いた時、両親は号泣するほど喜んだという。料理に携わる業界で働く者なら、喉から手が出るほど欲しがる才能だ。それを自分の娘が授かったと知って、両親の夢は大きくふくらんだ。

 将来、マーヤを自分達が経営するレストランの代表とするために。幼い頃から徹底的に、料理に関する知識や技術を叩き込もうとした。マーヤ自身も食べることや料理を作ることが大好きだったので、そんな両親の厳しい教育を苦とも思わなかった。むしろ自分は、大きくなったら両親のレストランでコックさんとして働くんだ、と思っていたほどだ。


 そして、突然やって来た悲劇――。ある日突然、マーヤは何も食べられなくなった。料理を作ることなど論外だ。水以外を口にできない体になってしまったマーヤは、栄養失調で日に日に痩せ衰えていき、自分の足で立つことさえもできなくなってしまう。このままでは餓死するのを待つばかり。少しでも生き長らえるために、口腔摂取できないマーヤのために、栄養剤を点滴した。

 それだけでは生命に関わると、魔法の力にも頼った。常人より長く眠り続けることで、少しでも体内のエネルギーを消耗してしまわないように。わずかに蓄えられたエネルギーだけで、生命を維持できるように。定期的に眠りの魔法を施すことにより、冬眠と同じ状態にさせることで寿命を長らえさせてきた。

 そうやってマーヤは六年間も、ベッドの上で眠り続けるという年月を過ごしてきたのだ。


 苦節の末、ようやく舞い込んだ朗報。『究極シェフ』のギフテッド持ちが作る料理で、マーヤはようやく食べ物で栄養を摂取できるようになるかもしれない……、という期待。しかし裏を返せば、その料理ですら受け付けなかったら? いよいよマーヤは死を待つばかりとなってしまう……、という不安。両天秤にかけられた状態だが、エブリンは確信していた。最高峰のコックが作る料理なら、きっと大丈夫だと。

 干物のようになった娘の手を握りしめ、母エブリンは愛おしそうに頬ずりする。骨張って、血管の浮いた手の甲。やっと娘が救われるという思いが、エブリンの期待を加速させていた。そんな母の嬉しそうな顔を見て、マーヤもまた期待した。

 ずっと眠り続けていたこの体――。目が覚めても血の巡りが悪くなったせいで、脳の働きまで鈍くなっている。そんな意識が判然としない状態で、マーヤは思う。

 これでやっと普通になれる。みんなと同じように健康になって、ベッドから起き上がって、自分の足で歩いて、走って。また美味しい料理やお菓子を食べて、天気のいい日にはみんなで近くの山までピクニックに行く。そんななんでもないと思っていた日々が、また送れるんだ――と。


 母エブリンの言っていたコックが到着するまで、あと数時間――。マーヤに寄り添う母親の背中を、ドアの隙間からのぞく少女がいた。母親と同じで青空のように深く青い、滑らかに艶めく髪をハーフアップに結っている。その髪は腰に届くほど長く、軽くウェーブがかっていた。清楚な薄紫色のドレスを着た少女は、マーヤの部屋のドアにしがみつくようにして、爪を立てている。

 恨めしそうに見つめる瞳の先には、マーヤがいた。唇を噛み、悔しさをこらえているのは、マーヤの双子の姉であるカーラ・ボナペティだ。十六歳の少女らしく、ハリのある白い柔肌、血色の良い唇。グレーの瞳は気の強い性格がよく表れていて、やや鋭くなっているが普段は目つきを自在に使い分けている。マーヤ以外の相手には、庇護欲をくすぐるような視線を投げかけるのが得意だった。


(無駄よ……)


 カーラは心の中で、そうささやく。今にも命が枯れてしまいそうな、双子の妹の寝込んだ姿を見てもなお、カーラの中でくすぶり続けた劣等感は、衰えることを知らなかった。


(だってマーヤは、病気なんかじゃないんだもの。あの子にかけられた呪いは、誰にも解くことができないんだから……)


 母親に気付かれないように、そっとドアを閉じて、カーラは妹の様子を見ることなく、その場を後にした。


 ちょうど六年前、カーラは特別扱いされる双子の片割れに呪いをかけた。誰もそれが呪いだと気付かない。その呪いをマーヤにかけるよう、呪詛師に依頼したのが他の誰でもない――双子の姉カーラであることを、この家に住む者は……誰一人知らない。

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