ボナペティ食堂へようこそ!

遠堂 沙弥

序章 『召喚の儀式』

 満月(フルムーン)の日、それは最も魔力が高まる夜だ。生まれてこの方、一度も魔法を使ったことがない者でさえ、満月の夜なら上手く扱えようになると言われている。そんな夜空の星の下、小高い丘の上にぽつんと建てられた、白い外壁に青い屋根が特徴的な大きな屋敷。その一室で二人の男女が、怪しげな儀式を行なっていた。

 一人は真っ白いコックコートを着た金髪の青年。やさぐれたように悪ぶった顔つきをしているが、彼の着ている服が物語るように、彼は正真正銘「ただのコック」だ。そしてもう一人は、床に寝そべるように倒れている青い髪の少女。真っ白いネグリジェを着た少女は、すぐそばにあるベッドから今しがた落ちたように見えるが、実はそうじゃない。

 

 ランプの灯りによって室内が完全な暗闇になることを免れているが、実際に室内を明るく照らしているのは、カーテンを開け放った窓から注がれる満月の明かりが主だった。今夜は特に明るい満月(フルムーン)、その月明かりで照らされた部屋の床にはハードカバーの本が一冊。その本の表紙には魔法陣が描かれていた。

 ネグリジェを着た少女は息も絶え絶えに、ベッドから本のある場所までほふく前進で進んで行く。それを横目で見守るコック。


「ほら、頑張れ頑張れ。あんたの健康は、もうすぐそこだぞ」

「うぅ……っ」


 恨めしそうな声を上げながら、少女は懸命に這いずる。その手は骨と皮だけかと思われるほどにか細く、這いずる際に上げた顔は、目を覆いたくなるほどに酷かった。頬はこけ、目は眼窩が落ち窪んだようになっている。マーヤ・ボナペティは紛れもない十六歳の少女だ。しかしその容姿は、骸骨かミイラかと思うほどにガリガリに痩せ細り、まるで老婆のように弱っていた。

 栄養失調で、もう何年も寝たきりの生活をしていたからか筋肉が衰えて、立って歩くことさえままならない。マーヤは魔法陣の描かれた本のある場所へ行きたかった。距離にして、男性成人の身長分にも満たない程度だというのに、その距離が果てしなく遠く感じられる。

 必死の思いで這いずる姿を、コックはただ見つめるだけで、手伝いもしなかった。彼は腕を組み、じっとその様子を見守るだけだ。マーヤの手には硬貨が握られていた。この世界、アレバルニアで使用されている通貨の中で、最も価値の低い硬貨だ。彼女はそれを大事そうに握りしめながら、懸命に本を目指す。

 やっとの思いで本に辿り着くと、マーヤは真っ青な顔で本の表紙に描かれている魔法陣の中央に、握りしめていた硬貨を置いた。


「よし、そこで呪文だ! さっき教えた呪文を、力いっぱいに叫べ!」


 勝ち確と言わんばかりの表情で、コックは嬉しそうに叫んだ。思わず片手を上げて応援する姿勢になってはいたが、それでもその場から動かない。これはマーヤ自身が、自分一人の力でやり遂げないといけないことだからだ。

 もう何年もまともに声を出したことがないので、会話なんてそれこそ難易度の高い行為だ。声を出すことですら体力がいるマーヤにとって、コックに言われた「力いっぱい叫ぶ」という行為が、どれだけ負担の大きいものか。それでもマーヤはコックの言うとおり、それこそ死に物狂いで叫ぶ。ここで何もしなかったら、それこそ死を待つだけの運命なのだから。


「す……、すみませーん! 注文したいんですけどーっ!」


 教えてもらった時にも、マーヤは思った。これが呪文? 思えば、何もかもが怪しかった。変だな、おかしいなと思いつつ、それでもマーヤは彼にすがるしか道はなかった。怪しげなコックに、怪しげな本、そして極めつきにヘンテコな呪文……。これで自分の健康が本当に取り戻せるのか、と疑問に思った矢先だった。


 本の上に置いた硬貨が突然光りだし、月明かりで照らされていた室内が一瞬にして、閃光でも走ったかのように目が眩むほどの光に包まれた。思わず床に顔を伏せて目を守るマーヤだったが、次の瞬間。知らない男の声が、マーヤに向かって元気いっぱいに挨拶してきた。


「どうも初めまして! 私、異世界物流センター食品卸売市場、営業マンの諏訪部正太と申しま……って、うわあああ、お客様ああああっ! 大丈夫ですかあああ!?」


 男は目の前で倒れているマーヤを目にした瞬間、悲鳴を上げていた。

 謎の本は魔術書――、その世界で最も価値の低い硬貨を対価とし、異世界からある人物を召喚する為に用いるアイテム。そして召喚された彼――諏訪部正太は、ここアレバルニアとは全く別の世界から召喚されてやって来た。


 異世界を股にかけ、諏訪部の住む世界「地球」で採れた食材などを販売する企業、その名も「異世界物流センター食品卸売市場」――。

 この企業と取引するには、コックが渡した魔術書が必要となる。これは異世界物流センターの営業マンを召喚する為の、いわば窓口だ。


 倒れているマーヤが死んでいるものとばかりに、慌てふためく諏訪部。それを見て、お腹を抱えながら無責任丸出しで笑い飛ばしているコック。マーヤは数年ぶりの運動で力尽きてしまい、意識が遠のく寸前、自らの力で召喚した彼に願い事をした。


(誰かは知りませんが、私を助けてください――)


 枯れ果てたと思っていた涙が、両目からあふれてくる。

 マーヤは、必死の思いで彼――諏訪部に訴えかけた。


(私がまた、食事できるように……。私でも食べられる物に、出会えますように――)

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