第2話 信仰者・安達辰馬

 【零日の庭】開祖者の安達辰馬が天啓をうけ、彼独自の信仰を生み出したのは昭和二十九年のことだった。プロテスタント系教会に所属していた彼は、信仰において教会と対立し、聖書は偽の言葉だらけであると断じたところ破門となった。以降、彼は真のキリスト者として新たな信仰を広めることに尽力する。


 彼は自らを信仰者と呼び、彼に賛同する人びとのこともまた信仰者と呼んだ。信仰者同士語らうとき、呼びかけには「平らな皆様」を用いた。相手が一人であっても、「平らな皆様」と呼ぶことに拘ったのは、すべて人はおおくの人の連なりの末に居て、目の前の一人に話しかけると同時に、その背後に連なるすべての「在った人」に語りかけているからだそうである。安達辰馬に続いた信仰者たちにも、「平らな皆様」と呼び合う倣いは受け継がれた。


 彼が授かった天啓とは何だったのか。


 昭和二十九年三月十六日の朝刊で、第五福竜丸の被爆事故の記事を読んだ彼は、大変に驚き、神に仕える身としてなにか出来ることはないかとひたすらに焦った。その末に、焼津港に係留されているという第五福竜丸、死の灰を浴びた船舶とその乗組員に、せめて少しでも近くから祈りを捧げなければならないと思い込み、彼は新橋駅から東海道線に乗り込んだのだった。


 いざ焼津へと心ばかりは急くが、車窓の外は晴天が広がっており、春うららかな太平洋を臨んでの行楽旅行のような妙な気分であった。用宗駅の手前、側線には蒸気機関車の廃車体がひっそりと置かれていた。安達辰馬はその廃車体が後方に消えていくのを、白目がぐるんとひっくり返りそうになるまで見つめた。どうしても神妙な気持ちを作らねばならないと思った彼は、廃車両に心を寄せることにしたのだ。しかし穏やかな春の空のした、廃車両までもがのんきそうに陽を浴びているように思え、彼はなにか間違ったことが起こっていると感じていた。


 向かいの席の老婆だけが陰鬱な雰囲気を醸していて、時折口からくちゃくちゃとねちゃねちゃの間の、不快な音を発していた。


 石部トンネルに入り、一瞬の暗闇ののちに大崩海岸の絶景が現れたとき、彼は彼を浮かれさせようとする存在を感じた。まぶたを閉じて、死の灰を浴びる罪なき乗組員たちを想像しても、薄いまぶたの裏を赤く染めて彼を陽気な世界に連れて行こうとする。隣の席の婦人が広げる弁当の、海苔と焼鮭の匂いが鼻孔をくすぐる。

 悪魔めが! と彼は立ち上がって叫びたかった。実際に、【声】を聞かなければ彼はそうしたかもしれない。


 彼は【声】を聞いたのだ。


「あの、なんだろう、嘘つくのやめてもらっていいですか?」


 なにが嘘だというのだろうか。おれだろうか。おれの信仰が嘘だというのだろうか。辰馬は目をかっぴらいて声の主を探した。隣の婦人は弁当を食べ、手拭いで首元を拭っていた。陽に照らされて、日本髪の生え際に汗が滲んでいた。座席の背もたれの上から、後ろの席を確認する。記者風の中年男が二人いて、どちらも口を開けて寝こけている。窓側の男は色白で血色がよく、太っている。通路側の男は肝臓の悪そうな顔色をしていて、顎に無精ひげを蓄えている。こちらは不用心にもカメラを膝に置いたままでいた。彼らも焼津港へ向かっているのだろうか。


「ベーシックインカムでよくないですか?」


 ベーシックインカム、とはなんだろう。単純な英語の足し算に思えるが、そのまま訳すると基礎的収入だろうか。つまり……サラリーとは違う、土台、いや、必要最小限、ということか。あまねく配布されるインカム、収入。アカの思想だ。アカになってしまったのだろうか。おれは断じて共産分子などではない。

 彼は落ち着かない様子で帽子を被り、しきりに周囲を見回す。隣席の婦人が怪訝な視線をよこすので、彼はますます苛立った。なんと無礼な婦人だろうか。のんきに弁当なぞ食っている、祈りの気持ちも持ち合わせないであろう婦人。おれは祈りのために焼津港にまで出かけようとしているのに。


「嘘つくのやめてもらっていいですか?」


 嘘なのだろうか。おれは、確かにアカの青年に飯を食わせたこともあるが、それはだれもが隣人であり、隣人が困窮していたら施しをあたえるのが神の教えだからである。

 いったい誰がこんな無礼な言葉を投げかけてきているのか。向かいの席の老婆の声ではない。老婆はずっと口をもぐもぐ動かし続けている。

 通路を挟んだ座席を見ると、母親と二人の子どもが向かい合って座っている。子どもは男と女が一人ずつで、男の方が十歳かそこら、女の方は三つか四つに見えた。


 辰馬の混乱は臨界点に到達しようとしていた。


 そのとき目の前に不思議な絵が現れたのだ。色々な顔色の、極端に単純化された幼児の書く絵のような顔。ミミズのような線の下に、「通常」、下向き矢印には「やや注意」、二股の下向き矢印は「注意」、爆弾は「警戒」、赤い爆弾は「超警戒」。爆弾! これは終末を知らせているのだろうか。


 ――肩こりと頭痛がひどい〜、気圧かなあ

 ――あーこれ気圧のせいじゃん

 ――朝からだるい、気圧のせいか

 ――眠くて動けない、低気圧だから仕方がないよね

 ――ずつーる見たら納得、気圧のせいだった


 言葉がなだれ込んでくる。


 気圧のせい、せい、せい。人は気圧に支配される。いや、気圧だけではない。この車内に降り注いだ陽光も、それを白く反射して舞う埃の粒も、空と海の境のない青色も、自然そのものが人の気分も体調も動かすのだ。人にこれだけ影響を及ぼすものは神にほかならない。ということだろうか、そうだろうか。おれはおれを許したくてこんな考えになっているのではないか。こんなものは開き直りではないのか?


「それってあなたの感想ですよね?」


 また声が聞こえた。これにはガーンとさせられた。人の意思など、ただの感想にすぎない。そういうことを、この声は言おうとしているのか。

 そうだ、そのとおりだ。私ごときが疑問を差し挟むものではなく、世界はただあるがままに在り、人はあるようにしか在れない。疑問は、罪だ。神は【声】と【ずつーる】を以って、心の自然な動きをまだ疑うオノレを戒めたもうたのだ。


 安達辰馬は脱帽し、立ち上がった。通路に出て、神の見せたもう真理・ずつーるの絵と、聞かせたもう真言に感謝の祈りを捧げた。隣席の婦人はそっと弁当をしまうと、向かいの席の老婆の肩をたたき、「母さん、チョット」と言った。二人は連れ立って、別の座席を探して去っていった。

 婦人の弁当からこぼれたらしい米が床に落ちたままにされていた。米粒をみつめて、辰馬はそっと微笑んだ。頬には涙が伝っていた。


「あのおじちゃん、なんで泣いているの? なんで椅子に座らないの?」


 女の子どもの声が聞こえ、それに母親が「なんでだろうねえ」と返している。

 涙を抑えねばならぬと思いかけ、いや、ここは開き直りであると思い直した。開き直りの精神、あるがままの心を保つのは、なかなかに難しいものだった。


「大人が泣いているのをシテキしちゃだめなんだよ。でもおかしいよな、なんで泣いてるんだろうな。腹でも痛いのかな」


 兄の方が、年齢なりの分別として声をひそめて言った。しかし少年の甲高い声はそれでも車両内によく響いた。

 耐えねばならない、あるがまま。おれは真言を聞いたのだから。胸の前で組んでいた手が、自然と五指をあわせた合掌の形になっていた。両親指で眉間を抑えて彼は呼吸を深くした。みっともない、と取り繕おうとする気持ちを抑え込むのに、最適なポーズを自然と選び取っていたようである。


 かたまって動かない辰馬の周りの乗客が、肩をつつきあい囁きあっている。囁きはざわめきに変わり広がっていく。そのとき、背後から木の床を鳴らして歩く、革靴特有の硬い足音が近づいてきた。


「ここですよ、こいつ」


 しゃがれた声に振り向くと、記者風の中年男の、カメラを持っていない方が生白くて肉っぽい指で辰馬を指していた。話しかけている相手は車掌である。

 車掌は「お客さん、騒がないでくださいよ。椅子に座ってくれませんかねえ」と阿呆を見るような目をして言った。床にひざまづいて、五指を合わせて山型にした指のまま、ぼうっと車掌の顔を見上げたまま座り込んでいた辰馬は、苛立った車掌に「なんだ本当の阿呆だったか畜生め」と叫ばれ蹴りつけられ、座席の背に額をぶつける羽目になった。


 なんと横暴な車掌かと怒りを抱きそうになったものの、たしかにモタモタと椅子に座らないのは迷惑であり、阿呆である。それにこんな乱暴な車掌が通常あってよいはずはない。彼を通じて神は御自らの意志をお伝えになったのだ。辰馬はそう信じ込んだ。

 列車は焼津の駅に滑り込もうとしていた。記者風の二人組の男が立ち上がる。


「ああ、ああ、降りなくちゃあ」


 もごもご呟きながら、座席から鞄をとって駆け出す辰馬の背を子どもたちのナンデナンデの声が追っていった。おれの見たものはなんだったのか、辰馬は焼津駅でタクシーに群がる客をかき分けながら考え続けた。


 第五福竜丸を見ようという野次馬が朝からひっきりなしだということで、やっとこ掴まえた白タクは恐ろしい金額をふっかけてきた。さすがに高すぎる、と文句を言おうとしたとき、背後からきざったらしいカンカン帽を被った男が割り込んできた。


「焼津港まで頼むよ」


 そう言った男は、いかにもアプレゲールといった雰囲気を漂わせている。その腕には、肩のつっぱったAラインワンピースを着た派手な女が、ぶら下がるようにしてくっついていた。


「おれが先に交渉していた」

「だが金額面で決裂した」

「決裂していない、運ちゃん、出して!」


 タクシーに体を押し込みながら運転手に指示を出す。ドアが閉まる瞬間、男の罵倒が聞こえた。

 勢いで値下げ交渉も出来ないまま車を走らせてしまったが、少なくとも一組の野次馬を焼津駅に待ちぼうけにさせられると考えた辰馬は溜飲を下げた。焼津港は静かな祈りの場でなくてはならないのだ。


「お兄さんもあれかい、例の被爆船を見に行くの」

「そう。おれは牧師ですから、祈りを捧げたくて」

「それなら病院に行けばいいのに。港には誰も乗ってねえ船と、野次馬しかいないよ」

「いえ、おれは被爆した船を見て、祈らねばならないんですよ」


 車内におかしな沈黙が漂った。


「なんで?」


 沈黙を破って、運転手が訊ねる。バックミラー越しに目が合った。運転手はよく日に焼けた肌をした、ごま塩頭の男だった。出目気味で、白目が黄色くなりはじめている。

 辰馬は運転手の問いには答えなかった。

 顔の前で、五指をあわせた独特の合掌を作り、親指で眉間を抑えて彼は耐えた。「なんで?」と発した質問者の放つ、無邪気な期待とその重圧に。

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