* PM5:00
終業を知らせるチャイムが鳴ると同時に、わたしはパソコンの電源を落とした。
そそくさと荷物をまとめてオフィスを出ようとすると、奈々美が何かを察した様子でこちらを見ていることに気付いた。
残業常連組であるわたしがこんな時間に退社しようとするのだから、周りから好奇のこもった目で見られるのは仕方ないと思うが、あの子の視線にはきっと別の意味が込められている。
週明けは質問攻めに遭うだろうなとげんなりしつつ、気付かないふりをしてエレベーターに乗り込んだ。
エントランスに降りて外へ出ると、約束していた人影はもうそこにあった。
「……早いじゃん」
「おう、お疲れ」
柱にもたれて本を読んでいた一帆は、わたしの姿を認めると軽く手を振ってみせる。
彼が栞を挟んで本を閉じようとする一瞬、見覚えのある柄が目に入った。
……そっか。
朝の疑問がふと氷解し、わたしは一人で納得する。
あのクローバーの栞、こいつと色違いのものを買ったんだっけ。
「わざわざ会社の前まで来てくれなくても良いのに」
「まあオレ、今日は早上がりだったからさ。時間持て余してたんだよ」
「あっそ」
「つか、メッセージ見たなら返事くらい寄越せし」
「返さなくても来るくせに」
一帆はいかにも不貞腐れたように顔を背け、「可愛くねえ奴」と悪態をつく。
そんな表情に、わたしはわざとらしく口を尖らせて訊いてみた。
「可愛くないなら、別れれば?」
「いや、別れない」
いつの間にか、今日の天気を話題に挙げるかのような気楽さでこんな会話ができるようになっている。何となくおかしくなって、歩きながら空を見上げた。
ビルの隙間には、鮮やかな夕焼けが広がっている。
九年と、三百六十四日前に教室から見上げた空と同じ。
わたしたちが高校生だった頃を彷彿とさせる、どうしようもなく綺麗な色だった。
あの日の放課後、わたしは校門で待ちぼうけていた一帆のところへ向かった。
決めていたはずの返答はいつの間にか白紙に戻り、シミュレーションしていた言葉たちは頭の端から零れ落ちていた。
互いの姿を認めて目があった瞬間、予想していた展開とは違って猛烈に謝られた。
曰く、告白するには最悪なタイミングだったと後から気付いた、この間の試合でお前が不調だったのはオレのせいだったんだよな、謝ってどうにかなるもんじゃないけど本当にごめん、と。
十中八九、香澄先輩あたりに耳打ちされて初めて気付いたのだろうけれど、それでも落ち込みきった芝犬のような表情に、偽りの色は見いだせなかった。
そういえば、この男は昔からタイミングがずれていた。
ずっと昔、おやつの取り合いで喧嘩をした時も、何でわざわざ台所で取っ組み合いを始めたのやら。
おかげでわたしは火傷を負うし、その後も仲直りをしようとしたクローバーのことで喧嘩を重ねることになるし。
思い出せることの全てがくだらなく、そしてその
……でも。
後から振り返った時、結果的に悪者になってしまいがちではあるけれど、こいつは悪意に基づいて行動するような奴ではない。
そのことは、ずっと前から知っていた。
だから、あの行動にもきっと意味があったはず。
根拠のない確信を抱きつつ、わたしは訊いたのだった。
——ところでさ、一つ葉のクローバーの花言葉って知ってる?
あの瞬間は今でもはっきりと思い出せる。
一帆は熱湯にくぐらせたタコのようにさっと顔を赤くすると、今さら何の話を蒸し返してるんだよと弁明を始めたのだった。
一つ葉のクローバー。
花言葉は——「初恋」。
子供のくせによく知っていたものだと今なら感心できるが、相手もその意味を知っていなければ、花言葉など無用の長物だ。実際、幼いわたしはその意味を知らずに悲しい思いをしたのだから。
わたしの言及に何やらよく分からない言い訳をひたすら連ねる一帆の姿を滑稽だと笑いながら、しかし彼の気持ちが幼い頃から何ら変わっていなかったという事実を知るに、それらの言葉は十分すぎた。
……まあ、すなわちあの瞬間、少しくらいなら試してみてやっても良いかなという、そんな気の迷いを起こしてしまった訳なのだった。
「——あ、そういえば流奈」
呼ばれて振り向くと、一帆が横目でわたしのことを睨んでいた。
「お前、今日弁当持ってくの忘れたろ」
「ごめん、バタバタしてたらすっかり忘れてた」
「食材が勿体無いんですけど」
「ごめんて」
同棲を始めて一年経たないくらいだが、意外なことに一帆は料理が得意だった。逆に、わたしは料理下手な上に朝が弱いということもあって、毎日のお弁当は彼が作ってくれている。他の人に言うと呆れられそうだから、秘密にしているけれど。
「昼は何食ったの?」
「コンビニのパン」
「それじゃ足りないだろ。せっかくだし、たまには外食でもしていくか」
普段は節約だ何だと言うくせに珍しい。
一瞬そう思ったものの、一帆の意図は分かりやすかった。わたしはこっそり苦笑を洩らす。
そう、明日でちょうど十年。
どうやら彼も、この節目を気にしてくれていたらしい。大方、どこか良いところのレストランでも予約しているのだろう。
……でも。
サプライズをするつもりなら、もうちょっと気を回してほしいところではあるんだけれど。
彼の鞄から見え隠れしているジュエリーショップの紙袋は見なかったことにして、わたしは火傷の痕が微かに残った左手をそっと伸ばす。
握りしめた彼の手は子供のように温かくて、不思議と懐かしい気持ちになった。
(了)
過ぎし日の贈り物たち りつ @sop_story268
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