3 PM4:00
心に立ち込めたもやは、午後になったところで急に晴れてくれる訳でもない。
午前と変わらずぼんやりしながら、わたしは手元のノートにぐるぐると円の落書きを描いていた。
——付き合って欲しいんだけど。
ゴールデンウィーク前、最後の日。
部活終わりに片付けをしている時、隣のコートで練習していた一帆に呼び止められた。そして、件の一言を告げられたのだ。
確かにあいつは幼馴染であり、ある種の腐れ縁があることは否定できない。
しかし、今まで散々いがみ合ってきたくせに、何故突然そんなことを言い出したのかが分からなかった。
そもそもそれは、大会直前の大事な時期に言う必要のあることだったのか。あるいは単純に、何も考えていない馬鹿なのかも……いや、馬鹿なのは前から知っている、そういうことじゃない。
心の中に溜めた言葉は凶暴性を増し、何もかもを滅茶苦茶に壊してやりたい衝動に駆られてくる。
手にしたシャープペンに力を込めると、悲鳴のような音とともにノートが破れた。隣に座る子がギョっとした表情を向けてきたので、我に返ったわたしは片手を立てて詫びを入れる。
……それにしても。
覇気のない空間だ。
現代文の授業。
おじいちゃん先生が、今にも死にそうな文字を黒板に書きながら、掠れた声で何やら説明している。
真面目に聴いている人は当然のようにほとんどおらず、ある生徒は机に突っ伏し、またある生徒は机の下で携帯をいじっている。
普段ならわたしも居眠りでもしているところだろうが、今日ばかりはそうもしていられなかった。正確に言うと、寝るだけの余裕が心に残っていない。
机の下でこっそり携帯を開き、その画面を見直す。
〈今日の夕方、待ってるから〉
連休前のあの時は返事もせずに逃げてきたから、きっとその催促だろう。
断るつもりではいるが、わざわざ直接顔を合わせてやる必要はあるのだろうかと思う。メールで一言ノーを突き付けて、それで終わりにするのは駄目だろうか。
悶々としながら顔を上げると、目の前のおじいちゃん先生は、小説に登場する花の役割について説明しているようだった。
「例えば、このお話に出てくる百合には『純潔』や『無垢』という花言葉があります。この意味を知っていると、女の死に際の言葉を信じて、ただひたすらに待ち続ける主人公の性格や行動と重なってきますね。
花言葉って、物語と関連していることが結構あるので、覚えておくと面白いんですよ」
そんなことを話しつつ、老教師は何やら楽しそうに文字を書き始める。もはや生徒を一瞥することもなく、完全に脱線を始めてしまっているらしかった。
「例えば、シロツメクサってあるじゃないですか。私、あの花言葉が面白いと思うんですよね」
シロツメクサ。
思わぬ言葉が出てきて、わたしの視線は知らず黒板に惹き寄せられる。
それはすなわち、クローバーの別名だ。わたしにとって、少なからず因縁のある草の名前。
耳をそば立てるわたしに構う訳でもなく、教師は話を続ける。
「この花、というか草。何故か一般的にこの花言葉が広まっちゃっていまして」
そう言いながらチョークを動かす。教師が何を書こうとしているのか、わたしには容易に想像することができた。
かつて、在りし日にその花言葉を聞いたことがあるから。
……「復讐」。
果たして彼はその通りに書き、コツコツと黒板を叩いてみせる。
「元々シロツメクサには『約束』っていう花言葉があるんですが、一説によると、それが果たされなかった時、転じて『復讐』になってしまうんだそうです。怖いですねえ」
復讐以外にも花言葉があるとは知らなかった。
一人でこっそり感心するわたしをよそに、教師は他にも次々と単語を書き連ねていく。
「実は、シロツメクサには他にもたくさんの花言葉があるんです。区別の仕方は色々ありますが、基本的には葉の数によって意味が変わってくるんですよ。
例えば、有名なのは四つ葉のクローバー。これはよく言われる通り『幸運』ですね。
一般的に見られる三つ葉の花言葉は『希望』とか『信頼』。それに、あまり見かける機会はありませんが、二つ葉は『素敵な出会い』や『調和』と言われていて、あと一つ葉は——」
「……え」
知らず、声が漏れていた。
おじいちゃん先生はくるりとこちらを振り返り、不思議そうな表情でわたしの顔を見る。
しばらく見つめ合うような格好になり、わたしが何でもないと手振りで伝えると、彼は何事もなかったかのように再び黒板に向き直った。
「——まあ、そんな感じです。興味があったら調べてみてくださいね」
それから教師は本筋である教科書の内容に戻っていたようであるが、わたしはそれどころではなくなっていた。
混乱する頭を巡らせ、今しがたの言葉を反芻する。
一つ葉のクローバー。その花言葉。
ふと、机の上の左手に目が留まる。
手の甲にある火傷の痕とは、幼い頃におやつの取り合いをした記憶の残滓。
その仲直りがしたくて、わたしは四つ葉のクローバーを探し、そしてあいつに渡したのだ。
差し出した「幸運」に対し、あいつは三枚の葉を千切って一つ葉にしてしまった。
この手に差し戻された、一つ葉のクローバー。
……幼い頃の一帆は、その花言葉を知っていたのではないだろうか。
ポケットから携帯を取り出して、再び机の下で開いてみる。一帆からのメールを読み返し、長らく悩んだ後で短い一文を送った。
窓の外を見やると、日中を覆っていた青さはその色を潜め、夕方の気配が空の端に滲んでいた。
その様は、以前化学の授業で扱ったリトマス試験紙を連想させる。
些細な事象に反応を起こし、色模様が変化していく。
あるいはそれは、他ならぬわたし自身のことなのかもしれなかった。
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