2 AM8:30

 電車を降り、学校に至るまでのだらだらとした坂道を上る。

 知った顔に遭遇することはないまま、生徒たちが疎らにたむろする校門をくぐった。


 時刻は八時半。


 授業が始まるには少し早い。このまますぐ教室に向かってもやることがないな、と考えていると、わたしの足は自然と部室棟を目指していた。


 校庭の傍にある、ただでさえ古い校舎をさらに数十年分風化させたような建物には「部室棟」の看板がかかっている。


 主として運動部の拠点であるが故、床は砂にまみれ、そこら中に消し切ることのできない汗臭さが染み付いている。屋根と壁があるだけで、言ってしまえばこの環境は屋外とたいして変わらない。


 どういう取り決めなのか詳しく知らないが、わたしが通う高校では連休明けの朝練が禁止されている。

 いつも騒がしいはずの廊下は今、全てのものが絶えてしまったかのように静かで、そんな中をわたしは足音をひそめるように歩いていく。


 誰もいないだろうと思いつつ一番奥にある扉を開くと、意外なことに先客がいた。


「——あれ、流奈だ。おはよー」


 逆光で一瞬誰か分からなかったが、目を細めて見ると、こちらを振り返っていたのは部長の香澄かすみ先輩だった。「おはようございます」と返事をすると、先輩は不思議そうな表情で首を傾げる。


「朝からどしたの? 練習ある日と勘違いした?」

「いや、勘違いした訳じゃないですよ。なんというか……荷物が邪魔だったから、先に置きに来ようかなと」


 特に用事があった訳ではないが、もののついでと自分のロッカーを開く。鞄の他に持っていた着替えやシューズを詰め込みつつ、先輩の方をちらと盗み見る。

 わたしとは反対に、先輩はロッカーから荷物を取り出し、持って帰るためにまとめているようだった。


 シューズやサポーター、バスケットボール。


 わたしの私物と比べて、それらは幾分くたびれていた。きっとそれが、一年という歳月の差なのだろう。


 視線に気付いたのか、先輩はわたしに目を向けると、悪戯がばれた子供のように小さく笑いかけてみせる。


「ちょっと荷物置きすぎてた。こまめに持って帰らないと間に合わなそうでさ」


 かけるべき言葉が見つからずに視線を彷徨わせていると、彼女は音もなくわたしの隣に並び、わしゃわしゃと髪をかき混ぜてきた。


「ちょっとー、しんみりしないでよ。淋しくなるじゃん」


「……だって」


 ロッカーを閉めつつ、呟く。



 わたしたちのチームは、ゴールデンウィーク中に開催された大会の予選で負けてしまった。


 実力的には問題なく勝てるはずの相手だったのに、あれを先輩たちの引退試合にしてしまったのだ。

 みんなは優しいから何も言わないけれど、敗北の原因がわたしのミスにあったことは明らかだった。思い出すだけで口惜しく、試合に集中できなかった自分が不甲斐ない。


 そして何より——への腹立たしさで気が狂いそうになる。


 ……連休が始まる前に、あんなことを言われなければ。


 わたしの集中力を削ぐに十分な一言。

 あいつだって、今が大事な時期だったと知っていたはずなのに。どう捉えようとも、あれは完全な嫌がらせだったとしか思えない。


 ロッカーについたままの左手の甲を見つめていると、嫌な記憶が想起される。


 いつだって、あいつがわたしの気持ちや感情を汲んでくれることはなかった。きっとわたしのことなんて、壊れて困らないオモチャか何かだと思っているに違いない。


 知らず眉間に皺を寄せていた。

 その意味を捉え違えたらしい先輩が、「そんな顔しないでよー。誰だって調子悪い時はあるんだから、流奈のせいじゃないって」と優しく頭を撫でてくれる。


「ほら。新部長がそんな顔してちゃ、みんなの士気が上がらないぞ。もっと笑って!」


 横を見やると、先輩は頬に指を当てて笑顔を作ってみせる。その屈託ない表情に、わたしの頬も知らず綻んでしまう。


「……はい。ありがとうございます」


 先輩は満足したように微笑むと、しかしその次の瞬間、何かを思い出したようにわたしの顔を覗き込んだ。


「あ、そうだ。そういえば今朝方、あの……なんて名前だっけ、男バスの子が流奈のこと探しに来たよ。ほら、たまに流奈に話しかけに来る、ちょっと格好良い感じの」


 その言葉で再び表情が曇る。「……渡良瀬わたらせ一帆ですか?」と訊くと、先輩はそうそうと手を打った。


「流奈ちゃんも隅におけないよねえ、まったく」

「いや、そういうのじゃないので。本当やめてください」


 にやにやする先輩を横目に、わたしは内心で大きな舌打ちをする。


 あの大馬鹿野郎、本当に何を考えているんだ。

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