第13話 あの日の母は

その時、あたしの視界の隅に、何やら小さなものが動いた。

赤ん坊だ。

ベビーカーに乗せられてあるちっちゃな赤ちゃんが、そこからモゾモゾと出ようともがいて、母親に抱っこされた。


その瞬間の、何の後ろめたさもない母親の笑顔。何だ? 大人がこんな朗らかで打算のない笑顔をするだろうか?


何で人生はじめてのように、赤ちゃんに目が奪われた?


「オカア、抱っこ」


幼稚園生だった時だ。あたしとオカアは、スーパーでの買い物の帰り、住宅街を歩いていた。それは、近道だった。家までは、もっと大きな道があるんだが、車に乗った奴が使う道だ。歩きでは、信号もないこの細い道を行った方が、時間を取られずに済んだ。


だが、そこは恐ろしいとこだった。でかい犬が、通り道の家の一軒に飼われているのだ。吠えてくるわけでもねえし、家の柵もある。だけどあたしはその犬がすげー怖くて、いつもビクビクして前を通っていた。


その日は、自分の恐怖に打ち勝てなかった。いつも心臓が小さくなって息が苦しいながらも、何とか通過していたのが、できねえ。


あたしはオカアに、抱っこと言ったのだ。


オカアは両手が重たい荷物で塞がっているのにも関わらず、黙ってあたしを抱っこしてくれて、あの犬の前を通り抜けてくれた。


ずっと、思い出さなかったことだ。何で今になって出てくんだ。


「ちくしょう」


あたしは、コーヒーカップを乱暴に取り上げて、中の黒い液体を、大量に飲み込んだ。


ガチャリ!


テーブルに叩きつけるように。


「思い出に囚われるならば、何もかも許さなくてはいけねえのか」


その言葉は、恨みの滲んだ声となり、あたしを落ち込ませた。いや、どんな感情になってるか、本当を言うとわかんねえんだ。悲しみなのか、ムカつきなのか、それとも。


アストレイアは、あたしを見ていた。あたしはその目に、あの時のオカアの目の光と同じ陽だまりを見た。


彼女は、また、笑顔になった。何でそんなに人間を信じられるのか、あたしにはわからなかった。痛い思いをしたくないから、誰もが仏頂面してるだろ。


アストレイアは、静かにコーヒーカップに手を伸ばした。取っ手を掴み、その部分を自分の身体の方へと、廻すようにした。


「人間は、生きていけるようにしか生きていけないと思うのです。表面上は、変えられても、根の部分は。でもいつか、自分の感情を持て余さないようになるならば。自分で自分を持ちきれる関係を作れるようになるのではないかと……。それが、大人になる、ことだと思うのです……」


「やめろよ……」


聞いていたかった。アストレイアのクリスタルガラスの透明度を持った硬質で、そして、反射する柔らかな光で優しく行き先を指し示すような言葉を。


だけど、あたしというものがガラガラと崩れていきそうで怖かった。


「暮れていく淡紅色ときいろの夕空をちゃんと見たことはある? 土砂降りの雨の日に、傘を差さずにどこまでも歩いたことはある? 泣けてこない? 世界は、わたしたちを愛してくれている……」


「やめろ」


あたしは、テーブルを殴りつけた。だけど角度がおかしくて、手が板の上を滑るような間抜けな動きになった。

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