夢路守の巫女と獏の君

かける

第一夜 ー1

 夢は一番身近な異界だ。だから、取り込まれないよう、気をつけなければならない。



 ぼんやりと夜の闇のほどけだした、薄明りの中を気怠く歩く。忍びあがってくるどぶ臭さに眉をしかめながら、どこかの酔っぱらいの吐瀉物を、長い脚はひょいと避けた。ついでに山積みにされたゴミ袋の上に、ジャケットから取り出した煙草の空き箱を放り落とす。

 華やかな都心の歓楽街の裏路地らしい、惨憺たる朝の光景だ。


(『春はあけぼの』ってーのは、嘘ですね)

 白葉しらははあくびを噛み殺し、ふるりと頭を重たげにゆすった。色を抜いて銀色に染まり変わった髪が、鈍く朝日に濡れる。ぬるい春風にゆれた髪先のくすぐった首筋を、なんとなく掌で撫でやりながら、溜息を落とす。

 一晩中、女性をもてなし、優しく明るく、人が良く振る舞うのに疲れ果てていた。本来の自分の気質は、そんな人好きのする方に寄っていないと自負している。


 だが、夜が明ければ仕事も終わる。これから近場の自宅マンションに戻れば、腹も減ってはいないし眠るだけだ。それだけのはず、なのだが――

(……どうせ今日も、寝れやしないんだろうなぁ……)

 整った細い眉が、不機嫌そうに眉間へ皺を寄せる。もう一度、憂鬱な溜息が薄汚れたアスファルトの上に重たく落ちた。


 白葉はこのところ、不眠に悩んでいた。

 元々幼いころから眠りは浅い方で、夜中に幾度も目覚めては、暗闇におびえて布団を被っていた。大きくなってからは気分転換に、ちょっとした散歩に出ることすらあったほどだ。


 だが、それでもまったく寝付けないということはなかった。それがいまは、うつらうつらとまどろんでも、何かに引きずり呼び戻されるように、はっと目が冴える。

 眠気はあるのに眠れない。

 妙に慕ってくれている後輩に、ぽろっとそのことをこぼしたら、『やべぇっすよ、それ。医者案件っすよ』とまで気遣われ、首位陥落の遠因ではと心配されてしまった。


 確かに、近ごろ仕事にあまり身は入っていない。しかし、それは体調の不良によるわけではなく、ただ単に、今の生活に飽いているからだ。

(そもそもホストなんて、長く続けられる商売じゃなし……)

 顔ばかりは生まれつき無駄にいいので、金にはなったが、とうてい一生ものの仕事とはいえない。稼げるだけ稼いだら、次の身の置き所を考えなければならない。けれども、それも面倒だ。


 車の影のない通りに点る、無意味な赤信号。それを無視して、横断歩道を歩きながら、切れ長の眼差しはちらりと車道を見やった。

(いっそ、ここで車でも突っ込んできて、轢き逃げしてくれてもいいんだけど……)

 半分は斜に構えた厭世観を鼻で笑って、半分はどこか本気で――泳ぐままの思考を持て余しながら、白葉はふと、頭上を見上げた。

(……こんなの、あったっけ……)

 背後で、渡り切った横断歩道の信号が青に変わった。


 白葉の視線の先。雑多な繁華街に隣接しながら、通り一本隔てただけで、ビジネス街の清廉さが漂いだす区画の真新しいビル。その二階の窓に、『月宮睡眠医療専門クリニック』という文字が、いやに小洒落て踊っていた。月をあしらった院のロゴなど、カフェや美容室のようなデザインだ。


(睡眠医療ねぇ……ぼったくりっぽそ)

 胡乱な目で品定めした後、そう決めつけ、白葉は気だるい足で家路を辿った。

 か細く硝子を彩る白の文字が、頭の片隅に蟠りかける。どうにも不思議と、気持ちがざわついた。

 その心地悪さを、白葉は大仰にこぼしたあくびと共に、無理やり人気のない街へ、落とし棄てた。






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