杉本繭子
~杉本繭子~
朝九時、神野ゆいは「聞くだけ屋」で杉本繭子と向かいあって座っていた。
「先日は大変失礼致しました」
先週初めてここに来た杉本繭子は、母を亡くしたばかりで十分間ただただ泣いていた。
「二回目以降は最大一時間までの時間が選べます。ただ「聞くだけ」の場合、料金は変わらず心のままにお支払いください。もし私に何かしら話をしてもらいたい場合は対話オプションの追加として一万円いただきます」
「わかりました。対話オプションで二十分でお願いします」
杉本繭子は封筒から一万円札を取り出し神野ゆいに渡した。
「それではスタートします」
神野ゆいはペットボトルのお茶を杉本繭子に渡してタイマーをセットした。
「私の父は、私が産まれてすぐに事故で亡くなったそうです。物心ついた時から母と二人でした。五年前に母が病気を患ってから、私は仕事と母の看病とで目まぐるしい日々を送っておりました」
先週ここに来た時はただ泣いていたので顔もよく見る事ができなかった。
今日の杉本繭子を見ていると、真面目で優しそうで、それでいて芯がしっかりとあるような、そんな印象を神野ゆいは抱いていた。
「母が亡くなって、お葬式やら何やらでバタバタして、ふと気づいたら私、一人ぼっちだったんです。この五年間自分の時間も何もなかったものですから。それで誰かに話を聞いてもらいたくてここに来ました。でも神野さんを見た瞬間、安心したというか、ホッとしたというか、涙が止まらなくなってしまって。本当に失礼しました」
「少しは落ち着かれましたか?」
「はい。だいぶ落ち着きました。それで今日は神野さんにアドバイスをいただきたくて」
「私なんかでよろしければ」
「神野さんがいいんです。あ、すみません。相談とかできる友達もいなくて……」
杉本繭子はペットボトルのお茶をいただきますと言って飲んだ。
「私は大学の頃英語を専攻してました。翻訳家になりたかったんです。卒業してからも勉強はしてましたが、諦めかけてた頃に母が倒れてしまって。それからは先程お話ししたように仕事と看病の疲れで勉強もしなくなりました」
「でもこの一週間ずっと考えてました。自由になった今、もう一度翻訳家を目指してみようかと。ただ、もうほとんど英語忘れちゃってるし、この歳になってそんな夢を追いかけるなんて恥ずかしいのではないかとか……。色々悩んでます。あ、私はもう四十才です。アラフォーです」
「もし夢を追いかけるなら留学しようかと考えてます。でも実際留学するのは若い人達ばかりなんですよね。年齢制限がある所もありましたし。もし夢をあきらめるなら、今の会社を続けてお見合いでもしていい人を見つけて結婚して……って、それもいいかなって考えたり」
「神野さん、神野さんはどう思いますか? あ、いえ、何も神野さんの言う通りにするとかそんなつもりはありません。本当に一つの意見としてお伺いしたいんです」
杉本繭子は少し興奮しているように見えた。
顔が紅潮している。
(困ったな……)
神野ゆいはしばらく考えた。
友達も相談相手もいない者が自分に二択をせまっている。
こういう場合、どっちと答えようが彼女は私の言う通りの選択をするだろう。
そしてもし行き詰まったり悪い事が起こると私のせいにして、怒鳴りこんでくる。
やっかいだ……。
「杉本さん、私が意見を言う必要はないと思います」
「え? どうして、ですか?」
「すでにあなたは自分がどうするか決めてらっしゃるのではないですか? 人というのは皆そうなんです。どちらか答えが決まっているのに人に意見を求めてしまう。同意して背中を押して欲しいだけなんです。応援して欲しいだけなんです。杉本さんは小さい頃から母一人子一人で今まで大変な苦労をしてこられたと思います。お母様の看病と毎日の病院通い。心配で不安で仕方なかったでしょうね。仕事終わりの一杯も付き合う事が出来ない。仕方のない事ですが、そうなるとだんだんと会社のなかでも一人ぼっちになってしまう。誰も誘ってくれなくなります。本当に、本当に辛かったでしょうね。よく頑張りましたね」
杉本繭子の眼からは涙が止まらなくなっていた。
「あなたは自分でおっしゃってました。自由になった、と。杉本さんはこれからは自分の為に、自由にしていいんです。留学したいならすればいい。結婚したいならすればいい。会社だって辞めていいんです。好きにしていいんです。何も我慢しなくていい。人の意見など求める必要はありません。あなたはこれから幸せになるんです。幸せになっていいんですよ、杉本さん。きっとお母様も同じお考えです」
ピピピピピ……
タイマーが鳴った。
また前回のように泣き崩れてしまってはいたが、杉本繭子はしっかりと前を見ていた。
「神野さん、わたし……」
涙を拭きながら立ち上がった杉本繭子は深々と頭を下げた。
「本当に……ありがとうございました」
お礼を言うと最初に一万円を取り出していた封筒を置いて「聞くだけ屋」をあとにした。
「ふぅ……」
神野ゆいは少し疲れた様子でソファーに倒れこんだ。
煙草に火をつけ、封筒のなかを覗いた。
四万円入っていた。
神野ゆいはちょっとだけ微笑んだ。
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