高野
~高野~
「いらっしゃいませ」
雑居ビルの三階にある「聞くだけ屋」に一人の男が入ってきた。
男は不安そうに辺りを見回している。
「あの、高野と申します」
神野ゆいは真面目で誠実そうな高野に座るよう促してすぐ本題に入った。
「ここはお話しを聞くだけです。私に何かしら話して欲しい時は言って下さい。ただし一切の責任は請け負いません。タイムリミットは初回は十分です。アラームが鳴ったら途中でも切り上げていただきます。最後に料金についてですが、決まっておりません。心のままにお支払いして下さい」
高野は真剣な表情で聞いていた。
「わかりました」
「では、私には一切の責任をとわないという誓約書にサインをお願いします」
机の上にあらかじめ置かれておいた誓約書を指さしサインを促した。
高野はすぐにサインをした。
「私は神野ゆいと申します。それではスタートします」
神野ゆいは名刺とペットボトルのお茶を渡しタイマーをセットした。
高野が喋り出す。
「実は最近、妻の様子がおかしいんです。あ、いや、おかしいというか……楽しそうなんです」
神野ゆいは相づちも打たずにただ高野の話を聞いていた。
高野はゆっくりと、考えながら話を続けた。
「私達には中学生と高校生の息子がいます。やっと子育ても一段落しました。これまで妻は仕事も好きな事も何も出来ずに子育てを頑張ってくれました。あ、私はしがないサラリーマンでして……残業やら接待やらで家庭の事は全て妻に任せっきりで、本当に妻には感謝しています」
「そんな妻が昨年、料理教室をやりたいと言い出しまして。妻は私が言うのも何ですが、料理がものすごく上手いんです。それで、妻が私に頼み事をするのが珍しく、私も嬉しくなって何でも好きにやったらいいと快く返事しました」
高野はお茶をひと口飲んで深呼吸してからさらに話した。
「それで、料理教室をするにあたっての研修だと言って外泊するようになったんです。泊まりがけの研修らしくて。一回や二回ならまだよかったのですが、毎月行っています。ちょっと心配になってきて、その……浮気してるんじゃないかとか。妻は本当に楽しそうでして、実際に今は二ヶ月に一回ちゃんと料理教室を開催してるんです。ホームページも立ちあげて。それは私も見ました。生徒さんも十人程いるようでした」
「それでもやっぱり不安になりまして。探偵でも雇って本当に研修なのか調べてもらおうかと考えましたが、私の安月給ではちょっとキツいですし、誰かに相談しようにもこんなお恥ずかしい話しは誰にも、ですね。それで会社の女の子がここの話しをしてるのを聞きまして、お電話した次第です」
「あ、その会社の女の子は実際にここに来た事はないみたいです。その子もうわさで聞いて一度行ってみたいとか言ってましたから。うわさでは、美人の女性が何でも話を聞いてくれて、そこに行った人は皆別人のようにすっきりとした表情で帰っていくだとか、まるで幽霊に取り憑かれた人がお祓いをしてもらったかのようだとか。そんなうわさがあるようですよ」
「実際ここに来て、神野さんがうわさ通りお綺麗でビックリしました。しかもお若いですよね? あっ、お答えいただかなくて結構です。ただ想像よりお若くて驚いただけでして」
高野は一通り話し終えると時計を見た。
残り三分を切っていた。
「人に話す、ということだけで案外スッキリするものなんですね。妻に対する不安はありますが何だか落ち着きました。でも、人の意見というのも聞いてみたいです。神野さん、もしよろしければ何でも意見を言っていただけないでしょうか?」
「何でも? 本当に聞きたいですか?」
「はい、何でもいいのでお願いします」
神野ゆいは大きく息を吸い込んだ。
「奥さんが浮気してるかもですって? だったらどうだっておっしゃりたいのですか? だいたい今まで二十年近くほったらかしにしてきたんですよね? 今さらあなたが何か言える立場ではないと思いますが。楽しそうにしてる? イライラしたり不機嫌でいるよりよっぽどいいじゃないですか。そもそも奥さんの事を信じて今まで子育ても何もかも全部任せてきた。だったらもう最後まで、死ぬまで黙って信じてあげてください」
ピピピピピ……
神野ゆいが少しキレながら話し終わると同時にタイマーがなった。
高野の表情は驚きで固まっていた。
「お時間です。終わらせていただきます」
高野はハッとした。
「あ、ありがとうございました……」
「最初にお話しした通り、心のままにお支払いください」
「あ、ああ、そうでした」
高野は少し動揺していたが、カバンから財布を出した。
「あの、本当にありがとうございました。本当に、ここに来てよかったです」
高野は深々と頭を下げて「聞くだけ屋」を後にした。
高野が階段を降りて行く足音が聞こえなくなってから神野ゆいはつぶやいた。
「三万円か」
そして煙草に火をつけた。
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