【KAC20235】レジリエンスは胸の奥(お題:筋肉)

 仲良しの宮路みやじ恵理えりちゃんから「相談したいことがある」と言われたのは、一学期中間テストの最終日だった。まだ梅雨入りはしていないのに、今日の空模様はどうにも重苦しい。

 この頃どこか元気がないのはわかっていて、だけど、こちらから根掘り葉掘り聞き出すような勇気はなかった。恵理ちゃんから話してくれるのを待とうと思っていたのだ。ついにこの日が来た――そう浮かれる気持ちが、まったくなかったわけではない。だけどそれより心配の方が大きかったし、ほんの少しだけ不安もあった。恵理ちゃんが落ち込んでいる理由に、心当たりがないわけではなかったから。


 学校帰りに私の家へ寄った恵理ちゃんは、二段ベッドの下段に腰掛けて、あのね香奈かな、と真剣な顔で話を切り出して来た。


「私……ずっと前から、トムくんのことが、好きだったの……」


 そう告げた恵理ちゃんの頬は真っ赤で、さすがに「知ってたよ」と返すこともできなくて、そうなんだ、と相槌を打った。

 同じクラスのトムくんは、本名を富石とみいしみどりといい、私と同じ団地に住む幼馴染だ。そして彼にはつい先日、優美ゆうみちゃんというかわいい彼女ができたばかりで、恵理ちゃんは「叶わぬ恋心」を打ち明けてきたことになる。

 結局、恵理ちゃんの相談は「諦めた方がいいのかわからない」という、私にとっては最も苦手な分野の相談だった。不安は見事に的中だ、何を言おうと数学みたいな最適解があるわけではない。

 恵理ちゃんが戸惑うのはわかる。トムくんはどう見たって恵理ちゃんのことが好きだったし、それは彼女が出来た今でも変わらないように見える。確実に両想いの恵理ちゃんを無視して、どうして優美ちゃんと付き合い出したのか、私にはぜんぜん理解できない――もしかして「恋愛」と「交際」とは、似て非なるものなのだろうか?

 そもそも、私は「恋心」というものの実感がない。小学生の頃に男子から虐められていた私にとって、幼馴染以外の同級生男子は、恐怖の対象でしかないから。だからと言って、幼馴染に特別な好意を抱いたことがあるかといえば……その答えは、全力で「ノー」だ。いや、別の意味では特別なのだけれど、それは家族とか兄妹みたいな感情に近い。

 仮に「恋心」の定義を「特定の誰かに対して強い好意を持つこと」だとするのなら、私にとってその相手は、間違いなく恵理ちゃんになってしまう。虐めにあっていた私を助けてくれた恵理ちゃんは、私にとって世界で一番大切な人だ……いつだってそばにいたいし、誰よりも幸せでいて欲しい。この感情を恋と呼ばないのなら、きっと私が恋を知ることはない。

 トムくんが優美ちゃんに対して、こんな感情を持っているようにはとても見えない。だけど恵理ちゃんはそのことがわからないみたいで、どうしよう、と何度も繰り返している。


「優美ちゃんのことを考えたら、もうトムくんと話さない方がいいよね……わかってるんだけど、話しかけられると、無視することもできなくて」

「それは、トムくんが悪いと思う……」

「ううん、悪いのはトムくんだけじゃないの。私、話しかけられて嬉しいって、思っちゃってる……から……」


 恵理ちゃんが本音をむき出しにして、私に打ち明け話をしてくれている。それはすごく嬉しいことで、とても誇らしく思っているのに、何故か「聞きたくなかった」という感情も同時に湧いていた。

 だから、私の唇は、意地悪な答えしか紡げなかった。


「私、お勧めしない……今のトムくんは、ひどいひとだよ」

「あっ、ううん、ひどいひとなのは私の方で――」

「だって、トムくんは恵理ちゃんの気持ち、きっとわかってるはずだよ……?」


 何の根拠もなく、そう言った。実際どうなのかなんてわからない。私から見たら恵理ちゃんはわかりやすいけれど、トムくんは鈍いから気付いてないような気もする。

 だけど、にしてしまいたかった。

 トムくんのことで悩む恵理ちゃんを、これ以上は見たくなかった。

 そして、それだけじゃない。二人の間にこのまま距離ができてくれれば、恵理ちゃんの「いちばん仲良し」は、ずっと私のままなんだ。


「トムくんが、恵理ちゃんのことを好きなら、優美ちゃんとは付き合ってないと思うの……だから、諦めた方が、いいよ」


 心を深く傷付けるとわかっていて、私は言葉を重ねていく。そうだよね、と悲しげに笑う恵理ちゃんを見ていると、自分の汚さを突き付けられている気分になった。

 誰よりもひどいひとなのは、私だ。本当に恵理ちゃんを好きならば、恵理ちゃんの幸せだけを願うべきなのに――ひどい言葉を最後まで言い終える頃には、既に後悔していたけれど、今更どうにもできなかった。


 翌日から私は、どうやって恵理ちゃんに謝ろうか、そればかりを考えていた。

 いつもと変わらない様子のトムくんに対して、恵理ちゃんは彼との距離感を迷っているように見えた。このまま放置していたら、いつか決定的な亀裂が入ってしまう。そうなる前に、あのひどい言葉を取り消して「頑張って」って背中を押してあげたかった。

 優美ちゃんを嫌いなわけではないけど、この件に関してのことを言うならば、彼女は明確な「邪魔者」だ。だって、誰がどこからどう見たって、トムくんと恵理ちゃんは両想いだった。二人と親しかった私から見れば、後から割り込んできたのは優美ちゃんの方だ……そういう理屈を抜きにしても、私にとっては「恵理ちゃんの幸せ」より優先されるものなんて、この世に何ひとつ存在しない。

 今からでも、間に合うだろうか。

 自分の弱さが招いた流れを、この手で変えることはできるだろうか。

 梅雨入りが宣言された週末の放課後、私は意を決して、恵理ちゃんの家へ遊びに行った。


 予想通りに恵理ちゃんは、一言もトムくんの話題を出さなかった。一緒に宿題を終わらせた後も、不自然なくらいにトムくんとは関係のない話をする。多分、自分では気付いていないんだ……昔から恵理ちゃんは、いつもトムくんの話ばかりをしていたのに。代わりの話題はそんなに多くなくて、あまり会話が弾まないことに、恵理ちゃんは焦りを覚えているように見えた。

 謝るなら、きっと今しかない。だけど「あんなことを言った理由」も打ち明けようとしている私は、なかなか覚悟が決まらなかった。

 自分の弱さが恨めしい。心の強さがあったなら、最初からただまっすぐに、恵理ちゃんの背を押してあげられたのに――そう思った時、恵理ちゃんがふう、と軽く溜息をついた。


「ねぇ、香奈……私、自分の弱さが嫌になっちゃう」

「え……?」

「トムくんのこと、諦めるって決めたのに……諦めたくないって、思っちゃうの。人の心って、どうやったら強くなるんだろうね?」


 恵理ちゃんは、自分の胸に手を当てて、もういちど深く息を吐いた。


「心もさ、強くできたらいいのにね……身体は鍛えたら強くなるじゃない? 心の筋トレみたいなの、あればいいのに」

「……うん、わかる。すごくわかるよ」

「でしょ? ちょっと調べてみようかな、おまじないとかありそうじゃない?」


 スマホを手に取った恵理ちゃんが、スルスルと検索ワードを入力して、あったあ、と画面を見せてきた。あるんだ、と思いつつ画面を見ると、そこには「レジリエンス」という単語に関する検索結果が並んでいた。


「これ、心の筋肉って言われてるんだって……見て見てこれ、トレーニングも書いてあるよ」


 恵理ちゃんは私の真横に座って、小さなスマホの画面を私に見せてくる。いつもよりも距離が近くて、うっかり嬉しくなってしまったけれど、私はまだ謝っていない。喜んでる場合じゃないのに……この時間が続けばいい、そう思ってる。

 これやってみようよ、と恵理ちゃんが指差したのは「恋も人生もうまくいく! 心の筋肉・レジリエンスの鍛え方」という記事だった。


「えーっと、自分はできる人間だと、実感することが大切です……? 勇気を出せば達成できそうな、小さな目標を作って、ノートに書き出してみましょう……だって」


 恵理ちゃんは通学鞄からルーズリーフを取り出して、自分と私の前にそれぞれ一枚ずつ置くと、うーん、と考え込んでしまった。悩むということは、いきなり「トムくんを諦める」なんて書き始めるわけではないみたいだ。よかった。

 私に見えないよう隠しながら、恵理ちゃんは自分の目標を書き込んでいった。私は何を書いたらいいんだろう。今いちばん達成したい目標は「恵理ちゃんに謝る」なんだけど……ああ、キッカケにするにはいいかもしれない。書いてしまえば逃げられなくなる。

 ボールペンで「恵理ちゃんに謝って、本当の気持ちを伝えたい」と書きこむと、覗き込んできた恵理ちゃんが、思いっきり不思議そうな顔をした。


「謝るって、なんのこと?」

「……諦めろって、言っちゃったこと。ごめんね……」

「えー、香奈が謝る必要ないよ!?」

「ううん……私、ひどかったの。恵理ちゃんを一人占めしたくて、それで……本当は、諦めて欲しくなんか、なかったのに……」


 謝る言葉なんて何度も考えたのに、それだけ言うのがやっとだった。

 恵理ちゃんはしばらくぽかんとして、それから笑顔で「そっかあ」と言った。その声はなぜか嬉しそうで、こちらが面食らってしまう。


「これ見て、香奈」


 差し出されたルーズリーフには、たった一言『告白する』と書かれていた。


「トムくんに、気持ちを伝えようと思うの。きちんとフラれないと、諦めるなんてできないから……彼女がいる人に告白なんて、本当に最低だと思う。きっとみんなに嫌われちゃうよね……でもね、私には香奈がいてくれるから。周りの子たちにどう思われても、いいの」


 恵理ちゃんは私に抱き付いて、支えてね、と言って笑った。

 そうだ、今度は私が恵理ちゃんを助ける番なんだ……子供の頃、虐めから助けてもらった時みたいに。

 私、恵理ちゃんの為に、強くなる。誰に嫌われたって、何が起こったって、私は恵理ちゃんのそばにいる。それが恵理ちゃんの強さになるなら、幸せな未来につながるのなら、どんなことだって頑張れるよ――。

 私たちは抱き合って、強くなろうね、と誓い合った。


 二人並んでフローリングの上に寝転がっていると、恵理ちゃんが急に「どこだろう」と呟いた。


「ねぇ香奈、レジリエンスって、どこにあるんだと思う?」

「……物理的な話?」

「まさかぁ、イメージの話!」


 恵理ちゃんは大げさに、うーん、と悩むそぶりを見せた。

 心は脳の働きなのだから、頭にあると考えるのが自然だろう。だけど「イメージの話」となると……胸にある、と考える方が想像しやすい。苦しくなったりときめいたり、せわしないのはいつだって胸の奥だ。


「胸の奥、かな……?」


 私がそう答えると、恵理ちゃんはそっと私の手を取り、自分の胸に触れさせて「筋トレ効果出てるかなぁ」と笑っている。そういうことじゃないのだと、ちゃんとわかってはいるけれど……なんだかすごくおかしくて、私も同じようにした。

 目を閉じると、手のひらから鼓動が伝わってくる。ああ、これが恵理ちゃんのリズムなんだ。私のリズムも同じように、恵理ちゃんに伝わっているのかな――お互いの鼓動が溶け合っていく気がして、とてもやわらかな気持ちになった。


(了)

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