十四話
「……はあ、やっと終わった」
館内が寝静まる時間、地下の部屋へ戻る途中、廊下に汚れを見つけたアデルは同僚のメイド達が仕事を終えて休む中、ランプ片手に独りでその汚れを落とし続けていたが、三十分かけてようやく綺麗にすると、曲がった腰を伸ばした。
「片付けて早く寝よう……」
あくびを噛み殺しながら掃除道具をまとめていた時だった。
「――待って――」
どこかから聞こえた女性の声に、アデルは振り向く。
「……奥様の、声?」
マデリーンらしき声は廊下の先から聞こえた。すでに寝ているはずなのに、何だろうか――気になったアデルはひとまず掃除道具を置くと、声のしたほうへ様子を見に行ってみた。
「……ん? ヘティ?」
廊下の角を曲がると、そこには同僚のヘティがいた。
「あ、アデル。どうしたの? こんな時間に」
「ついさっき掃除を終えて……ヘティこそ何してるの?」
「私も雑用が長引いちゃって、終わったから部屋に戻ろうとしてたんだけど、さっきから奥様みたいな声が聞こえるから……」
そう言ってヘティは背後の暗い廊下の先を見つめる。
「ヘティも聞いた? 実は私も聞いて、様子を見ようかと来たんだけど」
「そう……やっぱり気になるわよね。何も問題がなければいいけど、万が一ってこともあるし」
「じゃあ一緒に行きましょう。確認しておかないと」
二人はアデルのランプで照らした廊下を進み、声のするほうへ向かって行く。それは二階への階段がある方角だった。マデリーンの部屋も二階にある。そこで話しているのだろうか。歩き進むにつれ、聞こえてくる声も徐々に大きくなってくる。言葉も鮮明になり始めると、マデリーンと話す男性の声も聞こえてきた。
「――止めるな!」
「あなた、やめて――」
マデリーンが相手の男性を止めようとしているようだ。彼女があなたと呼ぶのは夫であるミシェルだ。つまり夫婦で何か揉めているらしい。そうわかって様子を見るべきか迷う二人だったが、階段にたどり着き、そこから二階を見上げた直後、人影は突然現れた。
「私はもう決めたのだ! 邪魔するな!」
二階の廊下を歩いて来たのはミシェルだった。見上げる二人の前を早足で通り過ぎようとしたが、後ろから走って追い付いて来たマデリーンに腕をつかまれ、止められる。
「考え直して! そんなものをローザに――」
「これ以上待つことはできない! 離せ!」
ミシェルを懸命に引き止めるマデリーンは、そこで階下の二人に気付き、急いで呼んだ。
「アデル、ヘティ、見ていないで、一緒に止めてちょうだい!」
傍観していた二人は、呼ばれると慌てて階段を駆け上った。しかしなぜミシェルを止めるのか、その事情がまだ見えてこない。
「お、奥様、これはどういう――」
「いいから早く!」
アデルはランプを置くと、ヘティと共にミシェルの前に回り、肩を押すように止めた。
「失礼いたします、ご主人様」
「奥様と、今一度お話しされては――」
「私は決めたと言っている! どけ!」
ミシェルは苛立った声で叫ぶと、腕を振ってヘティを突き飛ばした。その勢いでヘティは手すりにぶつかり、しゃがみ込んでしまう。
「あなた、何をするの! 乱暴な真似はやめて!」
「邪魔をするからだ! 私はこれを飲ませなければ……!」
もがきながらそう言ったミシェルは、自分が右手に持つものに視線をやった。つられるようにアデルもそれに目をやる。強く握られていたのは茶色い薬瓶のようだった。体調を崩してもいないローザになぜ薬を飲ませるのか――そう疑問に思った瞬間、アデルはマデリーンがこうして必死に止めている理由をようやく知った。
「お前も、どけ!」
ミシェルの腕はアデルも突き飛ばし、マデリーンは引き止め切れず夫の腕に引きずられて行く。このままローザの部屋へ行かれては大変なことになると、アデルは立ち上がろうとしていたヘティに言った。
「ヘティ、あなたはクロードを、警備を呼んで来て」
「わ、わかった!」
置いてあったランプを手にすると、ヘティは走って一階へと戻って行く。それを見送る間もなく、アデルは再びミシェルの前に回り込み、聞いた。
「ご主人様、その瓶はまさか、堕胎薬なのですか?」
「だったら何だ」
やはりそうかと焦りを覚えながらアデルは聞く。
「なぜ急に……今までは何も仰らずに――」
「何も? 私は最初から腹の子は堕ろすべきだと言っていた。だがお前が父親を捜すというから、しばらく待ってやっただけだ」
「それはまだ続いております。判明するまでは――」
「私は十分待った。だがもう時間切れだ。これ以上腹の子が大きくなればローザの危険がさらに増してしまう」
「子に関係なく、あの娘には危険すぎるものです! お願いだから飲ませるなんてやめてちょうだい! ローザは望まないことよ!」
腕にすがる妻にミシェルは厳しい目を向ける。
「私達にとっても望まないことだ! こんな形の妊娠など……。先日来たアルバクス卿の子息が良い例だ。どんなに思いがあろうと、他人の子を孕んでいると知った途端、背を向けて立ち去ってしまう。それが貴族社会なのだ!」
アデルとマデリーンは驚いた顔でミシェルを見た。
「……あなた、そのことを、知っていたの?」
「だからこれを飲ませるのは、あの娘のためなのだ。幸せな将来を送らせるためには、これを飲ませるしかないのだ……!」
「し、しかしご主人様、このような方法はあまりに――」
聞く耳を持たないミシェルはアデルを強引に押し退ける。
「父親が見つからないのならば、もうこれしかないだろう!」
「それは、必ず見つけてみせます! ですからお考え直しを……」
ミシェルは無視して歩き出す。それをアデルとマデリーンは必死に引き止めようとするが、力で振り払われ、ミシェルはずんずん進んで行ってしまう。
「アデル、あの人を止めて!」
マデリーンは長いスカートをたくし上げ、懸命に追いながら言う。
「私だけでは、どうにも……早く警備が来てくれないと……」
ミシェルを追いつつ背後に目をやるが、まだクロードらが駆け付ける気配はない。そうして引き止められないまま追うだけになっていると、もう目の前にはローザの部屋の扉が見えていた。
「ミシェル、もう一度話し合いましょう! それからでも遅くはないわ!」
妻が悲痛な声で呼びかけてもミシェルは見向きもせず、一直線に扉へ向かう。クロードはまだかと、アデルはじりじりして背後の廊下を何度も振り返る。と、その先からかすかにばたばたと走る足音が聞こえてきた。やっと来てくれた――だが少し遅かった。
「待って! ミシェル!」
マデリーンは扉の取っ手を握った夫の手をつかみ、止めようとする。しかしすぐに振り払うと、ミシェルはためらうことなく部屋の扉を勢いよく開けた。
「……ローザ」
薄暗い部屋に踏み込んだミシェルは、窓際に立っていた娘を見つけて呼んだ。
「まだ寝ていないのか」
寝巻姿のローザは、突然入って来た父を見てもあまり驚いた様子を見せていなかった。
「ええ……何だか、眠れなくて、夜風に当たっていたの」
そう言うように窓は全開にされ、部屋には冬の冷たい空気が流れ込んでいた。夜風に当たるにしては寒すぎる気もするが、ローザはそうでもないのか平然としている。
「何か用? 騒がしい声が聞こえていたけど……」
すると部屋に入って来たマデリーンはローザに向かって言った。
「ローザ、部屋を早く出なさい!」
「え? どうしたの、急に――」
小首をかしげた娘にミシェルはすぐさま歩み寄った。
「その必要はない。さあ、その椅子に座ってこれを飲みなさい」
手を引かれ、椅子に座らされたローザはミシェルが見せた薬瓶を見つめる。
「何なの? これは……」
「心配することはない。飲みなさ――」
「飲んでは駄目!」
マデリーンはミシェルの持つ瓶を取り上げようとするが、手でさえぎられ触れることもできない。真逆のことを言う母と父に、ローザは困惑の目を向ける。
「この中身は、一体何なの?」
「飲まないで! これはお腹の子を殺す薬――」
「黙るんだ! ……いいから飲むんだローザ!」
ミシェルはローザの顎をつかむと、無理矢理口を開け、薬を流し込もうとし始める。このただならぬ様子にローザは恐怖を感じ、顔を引きつらせた。
「いや……やめ……!」
「ミシェル! やめてちょうだい! ……アデル、ローザを連れ出して!」
マデリーンは全身の力で薬瓶を押さえながら、余裕のない声で指示をする。これにアデルは慌ててローザに駆け寄ろうとした。がその時、視界に黒く大きな影が横切ったかと思うと、その影は二人がつかみ合う薬瓶を横から強引に奪い取った。
「なっ……!」
「ひっ、誰……!」
突然現れた人物にミシェルとマデリーンは恐れに身を縮ませる。黒い帽子に黒いマスク、そして黒いマントに身を包んだ姿は、どこからどう見ても不審者にしか思えなかった。アデルも異様な相手に恐怖が勝り、思わず足をすくませた。
「奥様! 参りました――」
その時、入り口から大きな声と共にクロードら警備隊がやって来た。しかしそこに明らかに部外者である人物を見つけ、動きが止まる。
「だ、誰だ!」
マスクのせいで表情はうかがえないものの、警備隊を見たマントの不審者はわずかに後ずさった。
「ぞ、賊だ! 早く捕まえろ!」
震える声でミシェルが叫ぶと、クロード達は一斉に目標へ突進した。それを見て不審者は奪い取った薬瓶を投げ付ける。しかしそれは警備隊の足下で粉々に砕け散り、一瞬怯ませるだけで当たることはなかった。
だがその一瞬の怯みを見せた隙に、不審者は開け放たれた窓から外へ身を乗り出す。
「……窓から逃げる気か!」
クロード達が駆け寄る前に、不審者は黒い影となって窓から躍り出た。ここは二階で、簡単には飛び下りられない高さがあるはずだった。アデルやマデリーンが息を呑む中、クロードは窓から頭を突き出し、階下を見下ろす。
「……くそっ、逃げたか」
すぐ下には地面ではなく、一階のひさしがあった。そこを足場に不審者は逃げたようで、見える範囲にはもう姿はなかった。
「追うぞ! 遠くへ逃げられないうちに――」
「待って!」
クロードが部下と共に扉へ向かおうとすると、それをローザは止めた。
「お嬢様、今は急ぎますのでお話は――」
「追わなくていい」
「……はい?」
警備隊全員がローザを見つめ返す。
「あの人は、賊ではないの」
「しかし、このお部屋に侵入して――」
「侵入したのでもない。私が招いたの」
言葉の状況が理解できず、クロードはマデリーンとミシェルを見やる。その二人も意味がわからないという目でローザを見ていた。
「……どういうことなの? 招いたって……あれはどう見ても賊でしょう」
「招いた人間が窓から逃げるわけがない。つまらない冗談は――」
「冗談なんか言っていないわ!」
声を荒らげた娘に両親は目を丸くする。
「それなら、あれは誰だと言うんだ」
「あの人は、義賊よ……」
これにミシェルの顔が険しくなる。
「各地で出没しているという、あの義賊だというのか? それを招き入れたと?」
「そうよ」
ミシェルははっきり返事をした娘の肩をつかみ、向かい合った。
「なぜそんな危険なことを! やつは民衆には歓迎されているようだが、我々貴族には仇なす者だ。危害を加えられたらどうするつもり――」
「彼は絶対にそんなことはしない」
「絶対などと言い切れるわけが――」
「だってお腹の子の父親だから」
「父親だろうと――何? 今何と……」
ローザはミシェルを強く見据えると言った。
「彼が、このお腹の子の父親なの。私は、彼を愛しているわ。心から」
一瞬にして場は静まり返り、そして凍りついた。ローザの言葉を聞いた誰もが耳を疑った。義賊が現れただけでも大事なのに、その男が子の父親であるなど、到底すぐには信じられない話だった。
全員が戸惑い止まる中、ミシェルはローザから手を離すと、小さな笑い声を上げた。
「はっ、はっはっ、つまらない冗談も、度が過ぎれば笑えるものだ」
「そ、そうね。これは冗談なのよね? ローザ」
引きつった笑みを浮かべるマデリーンをローザは真剣な目でじっと見つめる。
「お母様、これは本当のことよ。彼は義賊で、私の子の父親なの。今まで言えなかったのは、こういう事情があったからで――」
「ローザ、冗談はもういいのよ。正直に言いなさい。本当の父親は誰なの?」
「だから彼なのよ。信じたくないでしょうけれど、これが事実なの。お願いだから受け入れて。お母様」
「何を、言っているの……父親が、義賊、だなんて……そんなわけ……」
ふらふらと後ずさったかと思うと、マデリーンはその場で卒倒してしまった。
「お、奥様!」
アデルは慌ててマデリーンに駆け寄る。続いてクロード達もやって来て、床に倒れたマデリーンの様子を見る。
「お部屋へお運びしろ。それと医者を呼ぶんだ」
警備隊が運び出すのに付き添い、アデルも部屋を出る。その背後では心配げな眼差しを送るローザの姿があった。
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