八話

 手洗いに立ったローザはそこで出血し、ただちに呼ばれた医者に診てもらった。結果から言えば、腹の子にも母体にも特に問題はないということだった。妊娠初期に出血することはたまにあることのようで、ローザの場合は月経の関係での出血と診断された。数日続いたものの量は少なく、いずれ止まるだろうと言われた通り、出血は治まり、本人を含めた皆が安堵したのだった。


「ローザ、入るわよ」


 一声かけてマデリーンは娘の部屋に入る。その後ろにアデルとクロードも続く。身体の問題も解決し、この日はつわりも治まっていたため、今日なら話を聞けるだろうとマデリーンの判断で、ようやくアーサーとの関係を確認する機会を得たのだった。これで彼が父親なのかが判明するはずで、アデルは胸に期待と緊張を抱えながら、静かにローザの前へ出た。


「体調はどうかしら?」


 窓からの陽光に照らされたベッドにローザは上半身を起こした姿勢でいた。亜麻色の髪を流し、白い寝巻姿ではあるが、つわりのせいで痩せた様子もなく、顔色は良さそうだった。


「大丈夫よ。今日は久しぶりに気分がいいから。お出かけしてもいいくらい」


 ローザは母に満面の笑みを見せる。


「外出はもう少し控えなさい。出血があったばかりなんだから」


「でも問題ないものだったのでしょう? お腹が大きくなるとお出かけが億劫になりそうだから、今のうちにお散歩でもしておきたいわ」


「お腹の子を大事に思うのなら、安静にしておきなさい」


「私は病にかかっているわけではないのよ?」


「いいから。言うことを聞いてちょうだい」


「……はあい」


 肩をすくめ、ローザは仕方なさそうに返事をする。社交的な彼女にとって館内のみで過ごすことは退屈でつまらない時間なのだろう。散歩くらい許してあげてもいいと思うが、アデルにそんなことを言う資格はもちろんない。


「それで、お話をしたいというのは? アデルなの?」


 ローザの水色の目がアデルを見る。


「はい。私と、このクロードです。よろしいでしょうか?」


「ええ、いいけれど、何のお話なの?」


 二人はベッドの側まで歩み寄り、聞いた。


「イコール男爵のご子息、アーサー様をご存知ですか?」


「アーサー……ああ、物静かな方ね。知っているわ」


「会われたことはございますか?」


「夜会や宴で何度かあるわ。あちらから話しかけてくださって、少しお話しもしたわ」


 ローザの口調は明るく、そこに気まずさのようなものは見せていない。アデルは様子をうかがいつつ続けた。


「その宴についてですが、ザカリー様主催のものに行かれたことは?」


「お酒が大好きなザカリーね。ええ。行ったことあるわよ。友達に誘われたから」


「そこで、アーサー様とお会いしてお話しをされたことはございますか?」


 これにローザはしばし考える。


「……はっきり憶えていないけれど、多分話したとは思うわ」


 憶えていないという言葉に、アデルは表情を曇らせる。


「憶えていないのは、なぜでしょうか?」


「なぜって……彼はあまり目立たない人だから、悪いけど、印象に残らなくて。私もお酒を飲んでいたし、記憶が不確かで。でも、あの場にいた気はするわ」


 酒で、記憶が不確か――二人は顔を見合わせる。アーサーが話した通りなのか、アデルの緊張は増す。


「……アーサーのことばかり聞くけど、彼がどうかしたの?」


 ローザは不思議そうに二人を見つめる。これに今度はクロードが聞く。


「そのアーサー様ですが、酒宴の場で、お二人だけで過ごされたお時間などはございませんでしたか?」


「二人だけ……? どういう意味?」


 ローザは怪訝に見返す。


「つまり、具体的に申しますと、二階のお部屋へお二人だけで入られたかどうかをお聞きしたく……」


 クロードの質問の意図がわからず、ローザは困惑した表情を浮かべる。


「二人は一体、私に何を聞きたいの?」


「ローザ、いいから答えなさい」


 腕を組んで見守っていたマデリーンが横から言う。それにローザは眉根を寄せつつも言われた通りに答えた。


「……アーサーと二人だけになった憶えはないわ」


「そうはっきりと仰ることができますか?」


「ええ、多分」


「多分では困るのよ」


 再びマデリーンが横から言った。


「絶対にないと自信を持って言えるの?」


「お母様……?」


「お酒の影響で忘れてしまったということも考えられるでしょう。はっきり言ってちょうだい。どうなの?」


 マデリーンは不安そうに聞く。アデルは前日、先に聞いておきたいという彼女にアーサーの話を伝えており、それを聞いたマデリーンはひどく驚き、そして懸念を見せていた。どうやらアーサーはローザの相手としてはふさわしくないと考えているようで、できれば子の父親であってほしくないのが望みのようだが、そうは言っても確認が取れれば認めざるを得ないわけで、娘への聞き方も慎重に、注意深くなってしまうようだった。


「そう言われると、ところどころ憶えていないこともあるけれど、でもアーサーと二人になったことはないわ」


「憶えていらっしゃらないのは、どのようなことですか?」


 アデルの質問にローザは宙を見つめる。


「何を食べたとか、あの人とどんなお話をしたとか……だけどそれはお酒を飲んでいなくたって忘れることはあるでしょう?」


「そもそもローザ様は、どの程度のお酒をお飲みになっておられたのでしょうか?」


「私はどんな場でも、飲むのは二、三杯よ。それくらいで酔いを感じ始めるから」


「では酔う前に、それ以上はお飲みにならなかったと?」


「酔っ払って醜態をさらしたくはないもの。そういう方を散々見かけているから」


 アデルは意見を求めるようにクロードとマデリーンを見やる。


「聞いた話とはまるで違うわね……」


 ぼそりとマデリーンが言う。二階の部屋で二人きりになったはずが、ローザにそんな憶えはないという。さらにその時、ローザは泥酔状態だったというが、それも違うという。アーサーとは真逆の言い分……だがアデルにしてみれば、そちらのほうが普段のローザらしく思える。酔っ払った姿などこれまで見たことはないし、印象に残らない男性と言うくらい、興味のない相手と乗りで関係を交わすことは、ローザの性格には馴染まない話だ。やはりアーサーの言葉は疑わしいと改めて感じるのだった。


「……聞いた話って、一体何のこと?」


 ローザが首をかしげて母に聞く。これにマデリーンはアデルとクロードに話してもいいかと目で問う。二人が無言で了承すると、マデリーンは娘と向き合い、口を開いた。


「実は、あなたのお腹の子に関してなんだけど……」


 これを聞いてローザはすぐに気付いたように目を見開いた。


「もしかして、こんなことを聞いてくるのは、父親を捜すために……?」


「ええ。あなたが教えてくれないのなら、こちらで特定するしか――」


「やめて! どうしてそんなことを!」


 語気を強めた娘にマデリーンはなだめながら言う。


「ローザ、聞いてちょうだい」


「黙って勝手に捜すなんて……私は何も一生教えないつもりはないわ。時が来たら教えようと考えていたのに、その意志を尊重してくれないの?」


「あなたが私達を信じてすぐに教えてくれさえすれば、こうして捜すことは――」


「私はお母様もお父様も、ずっと信じています。でもお腹の子の父親を明かすこととはまた別なの。お願い。それをわかって」


 悲痛な眼差しを見つめ返し、マデリーンは強く聞く。


「なぜ今ではいけないの? 時が来たらって、それはいつなの? 私もミシェルもあなたの将来が心配なのよ。このまま父親のわからない子を産んでしまったら――」


「奥様、大変恐縮ですが、お話はその辺りで。ローザ様にはまだ明かされるご意思はないようですから」


 さえぎったアデルをマデリーンはわずらわしそうに見る。


「けれど――」


「私共が今おうかがいしたいことはただ一つ、アーサー様がお子の父親であるかどうかだけです」


「アデル……どうしてアーサーが父親だなんて聞くの?」


 ローザの水色の丸い目が不可思議そうに見つめてくる。


「勝手ながらご交友関係をたどり、アーサー様にお話をうかがう機会がございました。そこで仰ったのは、ザカリー様主催の宴の場で、酔ったローザ様と二階のお部屋でご関係を持たれたと……」


 それを聞いたローザはさらに瞠目し、口を閉じるのも忘れ呆然とする。


「彼が、そう言ったの?」


「はい。ですので、お子の父親はご自分で――」


「違う! アーサーとは何の関係もない! 単なる知り合いでしかないわ」


 即否定した娘にマデリーンは聞く。


「けれどあなたはお酒を飲んで、少し忘れていることもあるのでしょう? 彼との時間もそうして忘れて――」


「だから私は酔っていないわ! そんな飲み方をしたことはないもの」


「それを証言してくださる方はおられますか?」


 クロードに聞かれると、ローザは表情をしかめ、うつむく。


「友達の誘いで行ったけれど、お酒を飲み始めてからは離れてしまったから……。でも、周りには大勢招待客がいたわ。その中の誰かが見て、憶えていれば、もしかしたら……」


 つまり、ローザがどれぐらい酔っていたのか、ここでは判断のしようがないということだ。酒のせいで記憶がないから否定しているのか、記憶が残っているからこその否定なのか。どちらなのか考えても今答えは出ないだろう。だがローザの主張は明確だ。アーサーは子の父親などではない。すなわち――


「ローザ様のご記憶がでどうであれ、アーサー様の話された内容は、すべて嘘というわけでしょうか?」


 アデルの言葉にローザは複雑な表情を浮かべた。


「そうとしか、言えないわ……。私は本当に彼と関係なんかないのに、どうして父親だなんて……」


「間違いございませんか? ほんのわずかでも可能性は――」


「ないわ。絶対にない。だって私は――」


 そこまで言いかけて、ローザはなぜか言葉を止めた。


「……私は、何なの?」


 マデリーンが聞く。


「私は……身に、覚えがないから……」


 小さな声で言った様子をアデルは見つめる。今ローザは何を言おうとしたのだろうか。アーサーへの否定か、あるいは本当の父親についてか……。素性を明かさないことは、実はローザも苦しいのではないだろうか。父親候補が名乗り出て、それが偽者だというのなら、さっさと言ってしまったほうが自分も周囲も苦労せずに済む。だがそうしないのは、よほど言いづらい素性の持ち主なのだと想像してしまう。しかしローザは時が来たら教えると言った。言い方を変えれば、今は教える時ではないということだ。そこにはローザ、ひいては相手男性の事情をうっすらと感じ取れる。ローザは相手に気遣って明かせないのではないだろうか。相手の事情がローザの口を硬く閉ざしているのでは――アデルはそんな気がした。


「父親ではないと言うのなら、ローザ、やはり本当の相手を教えるべきだわ。でないと私達は否定するあなたを信じることがいつまでもできないのだから。お願いよ。名前を言ってちょうだい」


 優しく、穏やかにマデリーンは聞くが、ローザは顔をそむけ、表情を硬くする。


「まだ、言えない。言えるのは、お腹の子とアーサーは無関係だということだけよ」


「ローザ……」


 残念そうに呼んだ母を娘はちらと見る。


「この子の父親はただ一人なの。私しか知らない、ただ一人だけ……しばらく、私のことは放っておいて。少し疲れたみたい」


 見えない壁を作ってしまった娘に、マデリーンは口を開こうとしたが、それをアデルは咄嗟に止め、首を横に振って部屋を出ましょうと無言で促した。これ以上話を聞いてもローザは頑なになるだけで、何か聞き出せるとは思えなかった。


「……疲れさせて、悪かったわ。ゆっくり休んで」


 母の言葉にそっぽを向いたまま動かないローザをいちべつし、三人は静かに部屋を後にする。窓からの光に照らされた廊下を歩き進みながら、マデリーンは苦悩の表情を浮かべる。


「相手が名乗り出たアーサーではないなんて、喜んでいいのか疑えばいいのか、よくわからないわ」


「私には、ローザ様が嘘を仰っているようには思えませんでした」


「アデルと同感です」


 二人にマデリーンは困惑の目を向ける。


「あの娘が嘘を言ったかどうかはどうでもいいの。アーサーが父親でないのなら、その証拠を示せばいいのだから」


「そのためには、アーサー様のお話がでたらめだと証言してくださる方を捜せばいいでしょう」


「けれど、ローザの様子を憶えている者を捜すなんて、日が経っている今は難しいことだわ」


「ローザ様が仰っていた、宴の場にいた招待客……その方々にうかがって回ればいいだけのことです」


「でも誰が招待客かなんてわかりようが……」


「それは主催者であるザカリー様におたずねすればいいかと。以前、招待客の名簿があるとお聞きしました」


「名簿が? それならすぐにわかりそうね。ではお手紙を送ってまた約束を……あ、そう言えば」


 マデリーンはふと何かを思い出したかのように言って二人を見た。


「今朝届いた郵便物の中に、ウィドール子爵家の印が押されたお手紙があったんだわ。後で目を通そうと思っていたのだけれど……」


 これにアデルは閃き、言った。


「よろしければそのお手紙、すぐにご確認していただけませんか?」


「そうね。こういう話だものね。確認してみましょう。付いて来て」


 マデリーンは二人を連れて自室へと向かう。ローザの部屋とは逆方向の廊下、二階の奥にある扉を開けると、そのまま机へ一直線に行き、マデリーンはそこに重ねられた郵便物の中から一枚の封筒を取る。そしてすぐさま廊下で待つ二人の元へ戻った。


 早速封を開け、中の便箋を取り出す。と、そこには便箋の他に二枚の別の紙が入っていた。


「……招待状?」


 紙にはそう書かれていた。これを見たクロードは気付いたようにアデルに言う。


「もしかしてこれって、あの時言ってたやつか?」


 頷き、アデルはマデリーンを見る。


「ザカリー様とお約束なさる必要はこれでなくなりました。お手紙をお読みになれば書かれていると思いますが、これで招待客にお話をうかがいに行けます」


 以前会った時、ザカリーは客に話を聞きたい二人のために招待状を送ると言ってくれたが、それがまさに今日、ちょうど良い時に届いてくれたのだった。

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