04 翁

「あのガンコ爺さんも、ついにこの世を去ったか。嘆息ものだな」

 羽田発午前八時の特別チャーター機の中で、筑波学園都市・高エネルギー物理学研究所の橋本修三が呟いた。同機には、パイロットと客室乗務員を除けば、リチア地区時間風調査隊員たちだけが乗っていた。顔ぶれをざっと見まわすと、東大・時間計測研究所の奈良丸信也と関谷典正、高エネルギー研究所の橋本修三、文部科学省・基礎科学部自然観測部門の役人二人――中村と岡原――、立方体を雑然と組み上げたような高さ七十センチ巾と奥行き五十センチほどのブラック・ハムの遠隔操作装置(ドローン)(京大・天体物理学研究所)、それに国立宇宙物理学研究所の沢村と画像医学総合研究所の西田承子という計七人と一台だった。なお関谷によれば、パデュー大学の新庄良介が、現地でパーティに加わるという。承子と文部科学省の役人二人以外はみな――理論と実験という差はあるものの――時間風解析に携わる研究者だった。

「イタリアのエリオ・デルフ翁のことですよ」

 橋本が続けた。

「おっそろしく頭のいい爺さんで――ぼくは二度ばかり会ったことがあるんだが――いつも、こっぴどくやられたもんです。『お前の理論はなっちゃいない。何処にも整合性がないからだ』とか、おっしゃられましてね」

 橋本は昔を懐かしむような、遠い目付きをした。彼は五十七歳。このパーティの中では、奈良丸についで高齢だった。

「だが、デルフ翁、少なくとも現時点では、完全な勝利者になってしまった。ものすごいスピードで書き下ろした論文の百に九十九はクズでしたが、残りのひとつは、稀に見る傑作論文でした。そしてそのひとつが、われわれがこれから見に行こうという時間風を完全に予言した改訂版定常宇宙論だったというわけですな」

 そういうと、橋本は高らかに笑った。妙に目付きの鋭い四十歳台の役人二人の無言の威圧に、それまでぎくしゃくとしていた機内の雰囲気が急に明るくなった。

 北欧系イタリア人、エリオ・デルフは、天体物理学者、サー・ブレッド・ロイルの高弟だった。ロイルはボンディ、ゴールドらとともに初期定常宇宙論を提出したイギリスの天体物理学者で、クェーサーの発見にともない一度は自説を引っ込めたものの、数年後、再びその大幅改訂版を学会に提出するという強者だった。

 デルフは青年期、老年にさしかかったロイルとともに仕事をしていた。

 ロイルとデルフが初めに王立科学会に提出した論文の要旨は、以下のようなものだ。

 彼らはアインシュタインの宇宙方程式を――大方の天体理論物理学者がそうしたように――距離が時間の関数として表現されたものとはみなさず、粒子の質量が時間の関数として表現されたものと読み直した。その当然の帰結として、ロイルとデルフの宇宙では、時空は膨張せず、そのかわりに、原子の大きさが時間とともに小さく(質量が大きく)なっていく。原子から放出される光の振動数は原子質量に比例するので、遠方にある原子の発する光ほど赤みがかって見える。これが、この理論における、ハッブルの赤方変偏の基本的な説明である。またこの理論では、宇宙開闢の特異点であるビックバンは、宇宙の全粒子の質量がゼロであった時間t=0に置き換わる。この質量ゼロの超平面が、局所的な自然ゆらぎによって歪み、そのため、この超平面内の高密度領域に、本来そのまわりの時空にあるべき質量よりも小さい質量の粒子が流れ込むと、その付近は異常に高い赤方変偏を示すことになるが、これが、この理論によるクェーサーの説明である。また、背景放射については――通常宇宙の発光星雲と同じく――t=0以前に放射された星の光がt=0の近くで、そこにある小質量の粒子に吸収され、再放出されて――つまり、ぼやかされて――出てくる現象として読み直されて説明される。さらに、t=0を挾んで、たとえば、こちらの宇宙をプラス、向う側の宇宙をマイナスと仮定すると、向こうの宇宙からこちらの宇宙に入ってくる質量体は――t=0を境として重力相互作用の符号が異なるため――ホワイトホールに、逆に、こちらの宇宙から向こうの宇宙に出ていく質量体はブラックホールに見えることになる。……ここまでがロイルとデルフの改訂版定常宇宙論だった。

「そして、デルフ翁のみが先に進んだ」

 と、橋本が話を続けた。

「その前提から出発すると、t=0では質量がゼロとなるから、当然、すべての粒子は光速で走りだす。つまり、全粒子はみな、同じ時間を持っていることになる。これが、ただそうというだけなら何の問題もないんだが、あいにく、自然はその自然な状態として、必ずゆらぎを持っている。そこでデルフは考えた。その自然ゆらぎは、本当にその場所だけでゆらいでいるのだろうか、と」

 彼は一同を見まわした。

「アインシュタインが立てた宇宙方程式は、連続の負のリーマン球だった。だが、自然は――量子力学の要請から明らかなように――本質的には不連続だ。少なくとも、われわれが観測するという行為の上からは、見掛け上、不連続に見える。とすると、われわれの見ているリーマン球は解析接続(ひとつの領域で微分可能な関数があるとき、その微分可能性を保ちながら、その定義域を広める操作のこと。解析的延長ともいう)されていない一枚のシートということになり、そこではカット(多変数、または関数を変数とする関数では、通常のXY平面にその一部しか書き表すことができない。そのときの見掛け上の不連続点のこと)に相当するものが観測されなければならない。デルフはこれを、ゆらぎのために別の時間を持ったt=0の超平面が、その内側にもぐり込んだものと解釈してみた。そして、領域内にもぐり込んだその時間は、その領域で本来刻まれている時間との〈ずれ〉として観測されるであろう、とね」

「すなわち、時間三量子(クロノトリオン)ですね」

 関谷が応じた。

「その通り」

 と、橋本がにこやかな表情で大きく頷いた。

「そして、その時間三量子の、ある時空点に対する統計的挙動が〈時間風現象〉なんですよ、そこのむっつりと押し黙ったお二人さん」

 橋本は二人の文部科学省の役人に水を向けた。

「あんたら、われわれに同行するんなら、時間風に関して、最低限これくらいの知識は持っていなくっちゃね」

 だが、二人の役人は、橋本の言葉に少しも動じる気配を見せなかった。

「くそっ、だから役人ってのは嫌いなんだ」

 橋本が舌うちした。すると、

「ツイデデスカラ、時間三量子ノ説明モ済マセテミテハイカガデスカ?」

 ブラック・ハムが言葉を紡いだ。どうやら、彼も相当イラついているらしい。普段あまり使わない機械音声で、言葉を発したからだ。

「イヤ、ソレハ、奈良丸先生ノ方ガ適任デショウカ? ドウデショウ、橋本先生、奈良丸先生?」

 橋本は、奈良丸が先を話すことに同意した。実は、時間三量子に関して、彼は時間風ほど詳しくはなかったのだ。

「では、私から、少々説明申し上げることにいたしましょう」

 文部科学省の役人二人が、どちらかというとしぶしぶ同意したのを確かめてから、奈良丸は告げた。

「時間三量子、これは現在では、多くクロノトリオンと呼びならわされております。クロノとは時間のこと、トリは三、オンは一般的に粒子を表す言葉です。先ほど橋本先生が申されましたように、この時間三量子の正体は、その領域内部にもぐり込んだt=0の超平面と、その領域本来の時間とのずれ、すなわち、見掛け上の時間の差といえます。

「さて、この時間三量子には三つの成分があります。過去(パースト、p)、未来(フューチャー、f)、と 一瞬現在(プレゼント・インスタントリィ、π=pi)です。これらの粒子は、当然、その反粒子を伴います。時間三量子とは、簡単に申せば、これら粒子・反粒子の重複組合せからなり、保存量〈永遠(エタニティー)〉を担うエネルギー量子のことです。ちなみにその質量はゼロ、すなわち、光の速度で運動することができます。

「その名称の中に含まれる三という数字から、容易に想像ができますように、時間三量子の理論は、初めクォークの理論である色量子力学から類推されて構築されました。この事情は、色量子力学が、それに先立つ量子電磁力学を真似て建設された事情と同等と申せましょう。

「次に永遠(e)ですが、これは、ひとことで申せば、実時空での観測不可能量を可観測にする演算子――形而下演算子――存在の指標と見なされています。これは、過去、未来、一瞬現在で、それぞれ -2i、2i、1 の値を持ちます。観測不可能量、すなわち、オブザーバブルでない量とは、式の上だけに現れる仮想の値と考えて下されば充分です。

「最後に、その永遠が――原子の核子でいうところのアイソスピンのように――広義の意味の核運動量として張られた仮想空間が、永遠空間(エタニティ・スペース)と呼ばれている、とだけ申し添えておきましょう」

 それだけを伝え終えると、奈良丸は説明を終了した。要領は得ているが、実はその本質をまとめただけの、形ばかりの説明だった。沢村はニヤリとした。奈良丸信也は彼にしかできない方法で、科学が国際紛争の中で窮屈な目に遭わされている実情に対する怒りを、二人の役人に打つけたのだ。

「デハ、私ガ両先生ノ落チ穂拾イヲシマショウ。マダ、てんぽぶろっけんノコトニ触レラレテハオリマセンカラネ」

 奇妙に組み合わされた立方体形状のブラック・ハムが後を継いだ。

「てんぽぶろっけんトハ、時間風ノ形デ現レタ時間三量子ガ、〈永遠〉ヲ保存スルタメ、アル時間特異点ニ対シテ対称ノ位置ニ同種ノ影ヲ発生サセル現象ノコトデス。タトエバ、時間風ガ過去カラノ風デ吹キハジメルト、ソノ途中デ未来カラノ風――てんぽぶろっけん――ガ発生シテ、最終的ニ〈永遠〉ノ値ヲ1ニスルヨウニ働キマス。モチロン、コノ名称ハ、神秘的ナ美シサヲ持ツ、どいつ中央部北寄リニ聳エルはるつ山脈ノ最高峰、ぶろっけん山ニ現レル特異ナ光学現象ニチナンデ冠セラレタモノデス」

 沢村がブラック・ハムに思念波を送った。彼が自意識機械感能力を持つ、非常に珍しい自意識機械だったからだ。

(もっと大切なことを説明しなくていいのかい、ブラック・ハム。おれたちの研究の本質に触れる部分だ。時間三量子がエネルギー量子であるかぎり、それはなんらかの力を伝達するものだと考えられる。電磁気力を伝える光子や、重力を伝える重力子、それに弱い力や強い力(核力)を伝えるウィーク・ボソンや膠着子(グルーオン)、あるいは正重力を伝えると考えられている――いまのところ仮想の――第五の力の量子のようにだ。おれと君が立てた式の上では、時間三量子の縦波成分は――)

(黙ルンダ、ひろ!)

 ブラック・ハムが強い調子で沢村に思念波を返した。それは、通常の機械モードのさらに上をいく高振動数の思念波だった。

(君ノ隣ニイル役人二人ハ、ドウヤラ、超能力者(サイ・ペルソーノ)ラシイ)

(ナンダッテ?)

 いわれて沢村は、二人の文部科学省の役人の心にアクセスしてみた。入れない。二人の心は、かなり硬い遮蔽フィールド――訓練の賜物か?――で守られていた。そこで、沢村はブラック・ハムの思念に合わせて、高振動数の機械モードで思念波――(ナンダッテ?)――を返したのだ。こうすれば、沢村のように、よほど強い機械感能力(サイ・マシーノ)の持ち主でないかぎり、簡単に話を盗み聞きできない。

(ドウイウコトダ?)

(クワシイコトハ、モチロンボクニモワカラナイ。ダガ、推測ハデキル。ボクタチガマサニ捕マエヨウトシテイル理論ノ帰結――ソノひんと――ヲ掴ンデイルノハ、ドウヤラ、ボクタチダケデハナイトイウコトダ)

(時間三量子ノ隠レサレタ性質ヲ?)

(オソラク、彼ラハ軍事目的ニ、ソレヲ使ウツモリナノダロウ)

(クソッ、ナンテコッタ!)

 沢村が舌うちした。

(イツモソウダ。イツダッテ科学ハ軍事目的ノタメニ利用サレル)

 すると いくぶん慰めるような口調で、

(マダ、ソウト決マッタワケジャナイヨ、ひろ)

 ブラック・ハムが沢村にいった。だが、沢村はそれには答えず、

(みさいる・さいろトイウノハ、二重ノ意味ノ見セカケダッタンダナ。ろしあ、ソレニあふりか側ハ――モチロン、あめりか側モゴ同様ナンダロウガ――時間風ニコソ興味ヲ持ッテイルンダ。イママデニ類ノナイ、今回ノ、コノ巨大ナ時間風ニ)

「ところで、沢村さん」

と、文部科学省の役人のひとり、中村が、ふいに沢村に声をかけた。

「関谷助手から伺ったところによると、あなたは特A一級の機械感能力者だそうですね」

 中村の口調は慇懃だった。そして、それが沢村の癇に触った。

「ええ、そうです」

 彼は答えた。

「でも、その能力は、ぼく本来の遺伝的素養というよりは、兄からの贈り物なんです」

「と、い→イマス→と」

 沢村の心にアクセスできない焦りからだろうか、中村はその言葉の一部を思念波で送るというミスを犯した。とたんに、その場の全員が奇妙な顔つきで彼を見つめた。確かに発せられたはずの言葉の一部が聞こえなかったのだから、それは当然の反応といえた。

 だが、そんなことはどうでもいいという徹底した無表情で、沢村は中村に答えた。

「少々説明が面倒なので、その件に関しては後ほどということで……」

 そして、彼は一切の口を禁んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る