花冠

尾八原ジュージ

花冠

 ねね子と暮らしていくために、週に一度、町原さんに三時間売ることになっている。168時間のうちたったの三時間、それで一週間二人で全然普通に暮らしていけるくらいの金になる。でもねね子がいると計画的に金を使えないことが多いので、結局おれはもう一人か二人、金を出してくれそうな人に声をかけることが多かった。いっそねね子にまとまった金を持たせなきゃいい――にも関わらず家にまとまった額を置いておくのには一応理由があった。

 その日、町原さんと会ってからアパートに帰ると、案の定中がめちゃくちゃ荒れていた。嵐が通り過ぎたあとみたいな部屋の中にねね子がぽつんと座って「おあえりー」と歯が抜けたような声でいう。というか実際前歯が一本ない。

「大丈夫なんか、それ」

 部屋の惨状はともかくねね子の顔を見てそう言うと、ねね子はぐにゃーっとぶさいくな顔になる。

「ごめんんん、みっくんごめんねぇ、またおとうさんにお金持ってかれちゃった」

 これだよこれ。

「うち止めたんだけどさぁ」とねね子はべそべそ泣く。子どもみたいになりふり構わない泣き顔で、客観的に見たらたぶん汚い。でもおれはねね子をハグして頭を撫でる。

 ねね子から金を奪っていくのはねね子の父親なのだ。たぶん娘から絞れるうちは延々絞っていくつもりなんだろう。そろそろ引っ越しをしなきゃならないなとおれは考える。これで何回目だろう。

「ごめんねみっくん」

 ねね子がおれによりかかってくる。力を込めて握ったら骨が割れてしまいそうなか細い肩だ。おれはねね子の頬にキスをして、小さなベッドで一緒に寝る。本当に寝るだけだ。今日はもう一発だって出そうにない。


 次の日不動産屋に行って、ねね子と別のアパートに移った。どうせ荷物なんかほとんどないし、引っ越しはその日のうちに終わった。

 逃げたとはいえそう簡単にお得意さんを切れないから、あまり遠くにはいけない。おまけに即入居可で家賃諸々が用意できてとなると、住めるところはかなり限られる。

 新居というにはボロが過ぎるアパートは、玄関の横に今時珍しい二層式の洗濯機が備え付けられていて、ねね子が珍しそうにそれを覗き込む。

「これあたし使えるかなー」

 だって。おれは何とかなるんじゃねーのと適当に答える。どうせ家事するのだって大方おれだ。ねね子は絶望的に不器用なのだ。

 お前あいつのヒモなのって聞かれることは多い。おれが女にぶら下がってそうな見た目だからだ。でもねね子が生き物を養えるとは思えない。金持ってくるのも家事するのも大体おれで、ねね子は家でぼーっとしてるか、父親に金を渡してるか、大抵この二択だ。冷静になると、どうしてねね子と一緒にいるのかわからなくなりそうだ。だからもし冷静になったら、その途端おれは不幸になると思う。


「みっくん、また引っ越したの」

 町原さんに訊かれた。この人はどこでそういうことを知るのだろう。色々突っ込んだらいけない人だと思うので尋ねたことはないけど気にはなる。

 町原さんは一見ごく普通のおじさんに見える。でもよく見るとスーツは高級品だし、靴もカバンもいいものを持っている。町原さんが持つととたんに何でも地味に、目立たなくなる。それが僕の特技だよと彼はいう。

 町原さんはおれのことが好きだという。どうしてそんなにいいのかわからないけど、でも好きなのだ。おれには何かしらいいところがあって、それが彼にはしっくりくるらしい。おれのどこがいいのかわからないけど、その気持ち自体はよくわかる。

 町原さんはおれの首を両手でしっかり包んで、親指でゆっくり頸動脈を押していくとき、とても幸せそうな顔をしている。

「きみさぁ、何であんな女の子と付き合ってるの」

 おれの首を締めながら町原さんが尋ねる。服を脱ぐと思った以上に筋肉質な体が、仰向けになったおれの視界を圧迫している。血管がゆっくりと押されて脳がだんだん白くなっていく。最近はなんかこれがおれにとっても救いのような気がして、でも苦しいものは苦しい。あまり真面目な質問に答えられるような状態ではない。けど考えてはみる。

 なんでだろうな。

 どうせ町原さんだってちゃんとした回答なんか期待していないだろうけど、一応やれるだけはやってみる。

「なんか世界でふたりぼっち、みたいな、気が、するん」

 答えておいて、我ながらなにそれと思う。町原さんはそう、と言ってさらに力を込める。気がついたら気絶していた。

「みっくんはね、ほんとは賢い子だと思うよ」

 目が覚めると、町原さんが自分の性器からコンドームを外している。「きみみたいにきれいで賢い子が、言っちゃ悪いけどあんな子と何で一緒にいるの?」

 なんでだっけ。

 ねね子はおれの幼馴染で、一緒にいてやる約束だから。

 そう答えると、「子供の頃にプロポーズでもしたの?」と町原さんは笑う。

 おれはしていない。ねね子がしたのだ。みっくんのおよめさんになるって、彼女が言った。それでみっくんのことをぜったいしあわせにするねって自信満々に宣言するものだから、おれは「うん」と答えた。それで約束は成った。おれのことを好きっぽい人間なんて、ねね子しかいなかった。

「それで君は幸せなのかい」

 町原さんはまた問う。おれは答えずに寝返りを打った。心の中で答えた。しあわせかはわかんないけど、でも純愛なんだよ、町原さん。おれにはそれが必要なんだ。失ったら呼吸ができなくなってしまう気がするんだ。

 だからねね子のことは、あなたに売ってない残り165時間のことは、ほっといてくれ。


 新しい家はまだねね子の父親に見つかっていない。

 前の部屋にベッドを置いてきたから(元々備え付けだった)、ともだちに譲ってもらった薄い布団一組しか寝具というものがない。暖房もない。にも関わらず冬はまだ続きそうなので、部屋にいる間はほとんどねね子とふたりで布団に入っていた。暖まっている間に眠ってしまうことが多い。そういえばもう半年近くねね子とセックスしていない。

 さむいね、とねね子が顔をおれの胸に埋める。正直美人ではないと思う。でも髪は不思議なくらいきれいだ。黒くて長い髪を指に絡ませて、ねね子の頭を胸に抱く。おれの胸にねね子の頭蓋骨の形の穴が空いているみたいにしっくりくる。

「あったかいねぇ」

 ねね子が言う。まだ歯抜けの声だ。ぼろぼろのアパートは狭い路地の奥にあって、外の音があまり聞こえない。おれは世界にふたりぼっちになったような気分になる。本当にそうだったらいいのにと思いながら眠りに落ちる。


「またそのうちおやじさんに見つかるよね」

 町原さんはおれの首を締めながら喋るのが好きだ。だろうな、とおれも思う。

「そのおやじさんが、二度ときみたちのところに現れないようにしてあげようか」

 なんて、町原さんは重大っぽいことをさらっと言う。

「僕ならできるけど、どうする?」

 それはとても魅力的な「どうする?」だった。でも白くなっていく頭の中で、こういう警鐘はなぜかちゃんと鳴る。この人にそういう借りを作るのはやばい、と意識のどこかで声が聞こえる。おれは苦しい息の下で何とか「いいです」と答える。

「みっくんは賢い子だね」

 町原さんが笑いながら指に力を込める。

 意識が飛ぶ。


 アパートに帰ると部屋がまた嵐のように荒れていて、ねね子が部屋の隅にぼろきれみたいに落ちている。また顔を殴られてボコボコになっている。

「おやじさん来たんか」

 ねね子は「ごめんんんん」と情けない声を出す。あたしがばかだからばれちゃった、と言って泣く。おれは黙ってねね子の頭を撫でてやる。

「さむいね」

 ねね子がつぶやく。

 ぐちゃぐちゃになった部屋の片隅に布団を敷いて、いつもみたいにふたりで潜り込んだ。ねね子がおれの胸に頭をうずめてくる。

「あったかいね」

「うん」

「みっくん大すきだよ、世界で一番すき」

「うん」

 機械みたいにうなずく。おれは知っている。ねね子は結局、父親から連絡があるとどうしたって会っちゃうんだということを。ねね子の心はたぶん常に善で、自分以外のみんなもその善い心を持っていると信じているから、そういうことになる。どうしようもない。本当にどうしようもない女で泣きたくなる。

 でもねね子の「世界で一番すき」には嘘がない。それだけは確かだとおれにはわかる。だからねね子から逃げ出せない。家にまとまった額の金を、ねね子が使えるように置いておくのをやめない。おれは全然賢くなんかない。ふたり抱き合ったままで駄目な方へ駄目な方へと、わかっているのに転がっていこうとする。

 おやじさん、また来るだろうな。また引っ越さなきゃ。こことおっつかっつのどこかに。でも引っ越さなくても大して変わらないかな。どうだろうな。

 おれは目を閉じる。時間はあるし好きな女の子と一緒だけど、今日もやっぱりもう一発だって出そうにない。小さくて頼りない即席のシェルターの中で、いつの間にか瞼が重くなって眠ってしまう。

 そして、絵本に出てくるような満開の花畑のなかで、五歳のねね子が、五歳のおれに、花冠をかぶせる夢を見る。

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