第30話 あたり前があたり前じゃなくなる日

 夏休みが終わってもおれは雄一郎のマンションにいた。

 さくら園に帰る気にはまだなれなかった。

 それはきっとどこかで母を許せないという気持ちを持っていたからだ。

 結婚している時に不倫し、おれが生まれるまで誰の子かわからず、生まれてからは父と離婚し、俺は父親に育てられた。

 生まれてから本当の両親のそろった家庭の幸福を知ることができなかったのは、母のせいだと思っているからだった。


 その生活が2年続いている。



「おはよう雄一郎さん!起きてよ!」


この頃になると朝もおれが用意するようになっていた。


「んーー…もう少し寝かせてくれ……昨日も遅かったんだ……」


 おれの精神面が落ち着くと雄一郎は、外科医らしく帰りがどんどん遅くなる一方だった。

 夕飯の時間に帰れたらいい方でほとんどが日付が変わってから帰宅する。宿直も何度もあるようで、帰ってこない日も多い。


「お弁当も作ったから、おいとくよ?じゃおれもう行くからね」


「んーー。気をつけろよ、いってらっしゃい」


ベッドから降りることなく言われる。


「あ、かいと!」


雄一郎が両手を広げる。俺はその腕の中に入る。


「いってらっしゃい」

「行ってきます」


 椎名の家を訪問し事故当時の話を聞いてから雄一郎は事あるごとに俺を抱きしめる。そして、あたまポンポンしたり、撫でてくれるようになった。それは、


『おまえはいい子』

『ここで生活していいんだよ』


と、言ってくれているような感じだった。それがとても心地よく、海斗はたまらなく好きだった。


 大学四年になったおれは免許もとり、今では車で通学している。大学まで直に行くと片道1時間ちょっとで着くのだ。


「おはよう、かいと!」


 大学の友人もたくさんできた。


「今日ってさ、あそこの施設の採用試験の結果の日だよな?あー緊張するわー」


「そそ、そんでもって明日は創新会高度救命救急センターの面接試験だよなー。あーほんと緊張するよなー毎日。やべー、スーツのしわをのばしてない……。

 そうだ明日は海斗も行くんだろ?」


ゼミに入るとみんな就活の話をしている。


「おれ?ああ。明日のは行くよ」


「てか海斗、お前、他を受けてないんだろ?落ちたらどうするんだよ!あそこの倍率激ヤバなのに、落ちたら就職難民決定だぞ?いいのかよ」


「ああ、落ちたら実家に帰るから」


 おれは誰にも言わないが、創新会が自分を落とすわけないとタカをくくっていた。


 大学4年生、現在就職活動真っ最中。

 彼女、ナシ。彼氏も……ナシ。でも学校のみんなに隠れて同棲中、これが今のおれのすべて。

 同居人の雄一郎とは相変わらずスキンシップは何もない。


「雄一郎さん起きてよ、もう起きないと病院間に合わないよ?」


「おはよ海斗、今日は学校休み?こんな時間に家にいてもいいのか?」


「何言ってんの、今日は病院の面接に行くよ。

 徒歩5分だからまだ時間に余裕があるの」


「そうか、今日だったか。

 おまえ、ホントにうちに来る気?さくら園はいいのか?インターンだって、園のことを思って施設に行ってたんじゃないのか?」


「さくら園のことは考えてるよ……。

 でも今は雄一郎さんと一緒にいたいんだ。まだ、家には帰りたくない」


「そうか。お前の好きにすればいいさ。頑張れよ?受かるように」


「え?落ちるかもしれないの?」


「当たり前だろ、何?おまえ、コネで内定もらえると思ってた?甘いな。頑張れよ、俺も会長も一切加担しないからな。ハッハッハ」


「嘘だろー?」


 一気に緊張が、走った。

 9時に集合を8時半には行った。マンションにいては落ち着かなかったからだ。

 面接会場に着く。面接官に知っている顔は居なかった。余計不安になる。


 一応質問にもきちんと答えることはできた。あとは結果を待つだけだ。


 面接試験が終わると俺は学校のみんなとは離れて雄一郎に会うため外科部局へ向かった。

 その途中に雄一郎の声が聞こえてきた。見ると1人のかわいらしい看護師と話をしている。とても仲良さそうだ。どうみても看護師は雄一郎に気があるようだった。


   胸が……いたい……


 心の中がざわつく。そして、かつても同じことがあったことを思い出す。

 そう、自分がこの病院に入院していたときだ。あの時も若い看護師相手に楽しそうに話してた。俺はまたあの時と同じように、この光景を見て雄一郎に背を向け帰ろうとした。


「海斗?」


 まただ……。また雄一郎は帰ろうとする俺を見つけてしまう。しかし今度は捕まらない。雄一郎が存在を気付き近寄ってきたが、逃げるように海斗はマンションへと帰った。


   あたり前が

   あたり前じゃなくなる日が

   来るのかもしれない……



 創新会を受ければ絶対受かるとたかをくくっていた自分、雄一郎は自分のもので他の人に取られることなどない、他の人など眼中にないと思い込んでいた自分……。

 それら全ては勝手な自分だけの想いなのではないか。

 思えば東京でのこの生活を、同棲生活といえば愛し合っていそうだが、現在何年もキス一つない、単なる同居人と化しているこの関係性。それなのにどうして今でも雄一郎が自分を好きだと思えるのだろうか。何年も一緒にいて何もしてこないということは、他に付き合ってる人がいるということなのではないか……。


 不安を感じた海斗は、雄一郎に会うのが急に怖くなった。


 

   雄一郎と向き合う時が来たのかもしれない




 1人、マンションで考えていたその時、電話が鳴った。

 嫌な予感がする。



 そしてその電話がまた2人を離すのである……。

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