雪のなかの村

@hello_dosue

雪のなかの村

薄い百合

雪女×民俗学者

民俗学者視点


※適当、全てフィクション

※pixivに掲載



————————————————


雪のなかの村





日頃アスファルトを歩いている身にとって、積もった雪の上は不安定で歩きにくい。

一面真っ白な雪を踏んで進む。

雪が降り続けているせいか、地面にはひとつの足跡も無い。

ふかふかの新雪のすぐ下に、時間をかけて凝り固まっただろう雪の層がある。

道が全く分からないが、最初から道など無かったのかもしれない。


ここは新名村(しんみょうむら)、雪に遮断された「万年雪の村」だ。

この村では、「万年雪」の意味が変わる。雪が一年中溶けないばかりか、通年降っているのだ。

こんな珍しい村ではあるが、この村に観光で来る者などほとんどいない。夏の避暑地にするには寒すぎて、しかし冬になったら雪はさほど珍しいものではなくなるからだ。何よりも山奥にあってアクセスが難しい。

止むことなく降り続ける雪を、この村は観光資源にするつもりはないらしい。スキー場建設などの話はきっと挙がっていると思うが、断っているのだろう。宿泊施設も今回泊まっている温泉旅館以外には無かった。今の時代に電話で予約をするのだ。

そういう排他性も好ましい。宝石箱のようにきらきらしている。


(本当に止まないんだな……)

空を仰ぎ見ると、晴れているのに雪が止めどなく降ってくる。分かってはいても不思議だ。


新名村は、私が最近調査を始めた地域と同じ県にある。元々訪れたいと思っていたがなかなか都合が付かず、冬休みに入ってこうしてやっと来ることができた。

思いつくままに新名村へ来たものの、調査目的では無いので何も予定を立てていなかった。そもそも、雪に断絶されて情報の少ない村である。外の人間は「雪が降り続ける」ということ以外、この村についてほとんど知らないと言っても過言では無い。

今朝、遅い朝食を摂りながら旅館の女将にこの村について色々聞いたところ、西にある山の方に土地神を祀る神社があると教えてもらった。何しろ、この村の土地神は雪の神様らしい。雪の神様とは、なんてこの土地らしいユニークな神様だろうか。話を聞いてすぐに神社の位置を尋ね、簡単な地図まで書いてもらって、食後間もなく出発した。



(ここか……)


神社へは林道を通って行くのだと言う。

それらしき木々に辿り着いた。正直、ここまで来るのも大変だった。太陽の位置で進むべき方角の目処を付けるなど、今日が初めてである。

近づいて行くと、歩いていけそうな道が奥まで続いている。先は長そうで進むのを一瞬躊躇いそうになったが、ポケットに入れていた地図を確認し、林道へと入っていった。


山に近づいているからか、地面の雪の質が少し違う。より歩きにくくて、足を止めて一度深呼吸をした。

(今日、晴れでよかった…)

林の中は当然だが暗い。ずっと降っている雪も相まって、曇りだったら多少なりとも気が滅入っていただろうなと想像した。


またしばらく歩いていると、前から人が歩いてきた。地元の人間だろうか、歩くのが早いようで小さく姿が見えてからあっという間に近くまで来る。長身でショートカットだが恐らく女性だろう。白いダウンを着て、鮮やかな色をした毛糸の帽子を被っている。

(帽子、ポンポン付いてる……)

そのまますれ違うのだと思っていたら、私の方に歩いて来た。


「迷子?」

明るく尋ねられ、想定外の一言目に困惑してしまう。

「迷子って歳じゃないですけど……」

「歳なんてどうでもいいけど、見ない顔だから」

「旅行で来ました」

「こんなところに?」

「はい」

「物好きだね」

「…そうかもしれません」


昨日この村に着いてみて分かったが、ここの女性は皆肌が透き通るように白い。彼女も例に漏れず、真っ黒な髪とよく合っているし、切長の目と薄い唇が引き立っていた。要は、あまり見ない程の美人である。


「この辺に用事?」

「神社があると聞いたので」

「はは、神社はこっちでは無いぞ」

「え…、ここは神社に続いている林ではないんですか?」

「ああ、私の家の敷地内だな。歩く内に方向がずれてしまったのだろう」

「そ、それはすみませんでした」

「今日は神社は諦めた方が良いな。もう一気に暗くなる」

「そうですね」

後ろを振り返ると、東の空が徐々に暗くなってきているのが木々越しに見える。地面には私が付けてきた足跡がずっと続いている。真っ直ぐ歩いて来たようで、実際の足跡はぐねぐねと曲がっていた。

「勝手に入ってしまいすみません、すぐ帰りますので」

「気にするな、ここまでも遠かったろう。歩きだが送って行くよ。雪草温泉(ゆきくさおんせん)だろう?」

「その、ありがたいですが、大丈夫です。足跡を辿って帰れますから」

宿まで一緒に歩いてくれる人がいるのは精神的にも心強いと思ったが、そこまで甘える訳にはいかない。

「そんなこと言うな。こうして会ったのも何かの縁だ」

「いえ、その暗くなってしまいますし」

「…?だから送っていくんだぞ?」

「あなたが帰るとき危ないでしょう?」

「ははは、そういうことか、優しいな。私なら大丈夫だよ」


結局私が折れて、この親切な人と一緒に帰ることになった。



「本当に暮れるの早いですね」

横を歩く彼女はきっと私の歩く速度に合わせてくれている。彼女からしたら遅いだろうが、それでも割とすぐに林を抜け、開けた場所を歩いていた。まだ街灯が点かない時間らしく、辺り一面が薄暗い。私たちが進んでいる東の方の空は、端から濃紺に染まっていた。

「もう陽が沈むな」

後ろを振り返ると、陽は山々の向こうに沈み稜線が赤く縁取られている。その見事な色彩に、つい立ち止まった。もう少し早ければより綺麗だったろうなと口惜しくなる。雪の降る中で夕日が見れるなんてそうそう無い。

「そうですね、着いて来てくれて本当にありがたいです。申し訳ないと思って断ったんですが、実は少し心細くて」

彼女の方を見上げると、白い肌が夕日をそのまま反射していた。思わずじっと見ているとこちらを向いた彼女と目が合い、慌てて再度西の空を見る。


(……?)

微かな違和感


その正体を考えようとしても、目の前にちらつく雪が邪魔をする。

赤い山の端

空のグラデーション

薄い雲のヴェール

目の前を通過する雪

空が影を落とす雪面

二人分の足跡

色を持たない木々

東にはもう夜の空

…………


(………あ、)

気づく瞬間


その途端に、目の前に映る色が、全てセンセーショナルな意味を持って再現される。


(どうして……?)

その光景で

疑念は確信に変わり、背筋が冷えて行く。

血の気が引き、くらくらと眩暈がした。

確かめるように深呼吸をした。


確かめたら、死んでしまうかもしれない。

本能でそう思った。



「あの……」

「何だ?」


「……あ、」


「…あなたの足跡が付いていないのはどうしてですか?」

目の前に足跡は2本残っている。それは、今私が付けているものと、私が来る時に付けたもの。

最初は、雪が降り続けるせいで来た時のものが無くなっているのかと思うしかなかった。しかし、2本目の足跡はぐねぐねと曲がり、彼女の足元に繋がっていない。そしてその2本目は紛れもなく東の方までずっと続いていた。



「ああ、もう言っても良いか」

(……)


「雪女だからだ」

「え?」

「私は雪女だ。雪女は歩いても雪に足跡が付かない」

彼女はその場で足踏みをして見せた。何度雪を踏もうが、足跡は付いていない。

「はい?」

「雪女なんて知っているだろう?」

「そうではなくて、」


「本当に雪女なんですか?」

自分は今、どんな顔をしているだろうか。こんなに頭が混乱しているのは初めてだ。

「はは、分かった。これを持っていろ」

脱いだ帽子を手渡される。


「ほら」

黒く短かった髪が長く伸び、毛先から白くなっていく。

(そんな……)

腰ほどまで伸びた髪はさらさらと揺れ、紺色の空を綺麗に映している。白い肌に白い髪。雪景色に溶け込んで、降る雪が彼女だけは避けているように見えた。

「目も少しだけ変わるんだ」

長い前髪を上げると、白い睫毛の奥に昏い青の瞳が見えた。

手から帽子が落ちる。

「……あ、」


「はは、そんな怖がるな。ただ生まれついた種族が違うというだけだ。こんな村でもほとんど人間と同じ生活をしている」

拾おうとしたが、それよりも先に彼女が帽子を拾い上げ、雪も払わないまま被る。

「…すみません。怖がっているわけでは」

口ではそう言っても、未知のものを目の当たりにする恐怖は大きかった。

(……)


(違う。これは「畏怖」だ)

「…震えているぞ?」

握られた手は、すっかり冷えた私の手よりずっと冷たい。冷たくて、彼女の手こそ震えているような気がした。

「……、あまりに綺麗で、あの…」

大きすぎる恐怖は、簡単に讃美へと変わる。怖いものは、美しいのだ。

そうしていくつの風習が生まれたことか。


「…嬉しいよ」


「初めて見せた人間に、そう言ってもらえた」

本当に嬉しそうな笑顔をしたので、驚いて一気に緊張が抜けた。

「話したことないんですか?」

「言えると思うか?」

(言えるはずがない…)


「何で誰にも言わずにいたものを、急に私に話したんですか?」

「言わせるのか?」

「は?」

「気に入った」

「え?何を」

「身体」

「……は?」

「さっき『綺麗だ』と言ってくれたのと同じだよ。あまりに可愛いから一目惚れしたんだ」

「誤魔化さないで下さい…」

「ははははは、睨んでも無駄だぞ。誤魔化してなどいない」

(笑って誤魔化されている……)

美しくて、今度はなんだか腹が立ってきた。大きく溜息を吐く。

「…どうしてそれで笑えるんですか」


(あ、)

一斉に街灯が点いた。街灯の足元では、白く照らされた雪面の輪郭がぼやけている。降る雪の一部は光を浴び、それが集まって、ひとつの平面的な形がセロハンのように浮かび上がる。

「帰りますけど…ええと、」

「勿論私も一緒に行くぞ」

「分かりました」

(もう疲れた…)

「…今すぐ温泉に入りたいです」

「!じゃあ急ごうか。あと少しだよ」

そう言うと手を握り直して、私の少し前を軽やかに歩いていく。

冷たい手を離すことが出来ず、左手を引かれたままで宿まで歩いた。色んなことが起きて頭がいっぱいいっぱいな私の体温が上がるばかりで、彼女の右手が温かくなることはなかった。



「菊川(きくかわ)様お帰りなさーい」

玄関扉を開ければ、元気な声と共に、向こうからぱたぱたと足音が聞こえてくる。

「あら、江(ごう)ちゃん?菊川様とご一緒?」

「そう、間違って私の家の方に入ってきていた」

「あら、それは悪いことをしたわ。申し訳ありません、あの地図じゃ分かりづらかったわよね」

「いえ、大丈夫です」


「というかその髪!もしかして…!?」

「ああ、戻すのを忘れていたな」

みるみる内に髪が元の黒色に戻っていく。

「そういうことだよ。よろしくな」

まだ困惑が残る私に反して、彼女はあの告白以降ずっとにこやかに笑っている。その真意はよく分からない。

「きゃあ!そういうことなら!江ちゃんも夕食食べて行きなさい。お部屋に一緒に用意させるから」

女将はまたぱたぱたと廊下の奥に消えていく。


「女将さんはその、あなたのことを知っているんですか?」

小声で尋ねると、私よりも背が高い彼女は耳を寄せてくれた。

「うん?ああ、そうだな」

(…あれ?「初めて」だって言ってなかった?)


「ええと、部屋行きますか?私の部屋に夕食が来るんですよね?」

「うん。そうしよう」

「靴を脱ぎたいので、手を離してもらってもいいですか?」

「ああ、わかった」


靴を脱いで靴箱に入れると、また手を掴まれる。

「あの、」

「どうした?」

(突っ込んだ方が負けなのかもしれない…)

「何でもないです」

部屋に着くまで手はそのままにしておくことにして、廊下を進む。


廊下は所々軋んだ音を立てた。

「菊川というのだな。下の名前は?」

「玻璃(はり)です」

(そう言えば、名前を知らないのか)

「それだけか?」

彼女の脚が止まる。

「それだけ?…それだけですけど」

ミドルネームなどを聞かれているのだろうか。


「私の名前は聞いてくれないのか?」

彼女が少し不満げな顔を見せた。

「はは、何ですか突然。あなたの名前は何と言うんですか?」

「新名江(にいなごう)だ」

「新名(にいな)って、『新名村(しんみょうむら)』と同じ字ですか?」

「そうだ」

「へえ、新名(にいな)さん」

「玻璃、ここではほとんどがこの姓だから、下の名前で呼んでくれ」

「…江さん?」

「うん」

また満足そうな顔をしてから、江さんが歩き始める。


「下の名前で呼ばれたかったんですか?」

「ち、違う。いや、玻璃にそう呼ばれるのは嬉しいんだが、皆同じ姓なのは本当だ。ここの従業員だって…」

(慌てている…)

「ははは、分かりました」

「本当だぞ?それに、元々雪女には姓が無い。だから本来の名前で呼んでくれると嬉しい」

「そうですか」


「こっちの部屋です」

「入っても?」

「…そんなこと聞いてくれるんですね」

「失礼な」

(得意げに言うことでもない…)

「どうぞ」

空いている右手で扉を開ける。私が泊まっているのは畳部屋で、広くてひとりでは持て余していた。

「ありがとう」


扉が3回ノックされ、応えると女将が部屋に入ってきた。

「失礼します、菊川様。お尋ねしたいことがございまして」

「はい」

「お食事を先にされますか?それともお風呂に先に行かれますか?」

「お風呂でも大丈夫ですか?」

「勿論です。どうぞごゆっくりなさって下さいね」

「はい」

「江ちゃんはこちらの手伝いをしてね」

「え?」

「当然でしょ!そのぐらいマナーよ!ですから菊川様、念のためお部屋の鍵をかけてから温泉に向かってくださいね」

「分かりました」

「江ちゃん行くわよ!」

女将が江さんの腕を引っ張る。

「行ってらっしゃい」

「…分かったよ」


一人になれるのはありがたかった。今日一日で得た情報量が多すぎて、何一つ整理できていない。混乱の元凶と一緒に居ては一生落ち着けそうになかった。

薄々気付いてはいたが私の他に客はいないようで、実質の貸切風呂だった。冷え切った身体が表面から解かされていく。


万年雪の村

林の奥に住む雪女

姿を変えて生活している

雪女は足跡が付かない

初対面なのに正体を明かされた

女将さんも正体を知っている


(…駄目だ)

今日起きたことを繰り返しているだけだ。温泉が気持ち良くて、結局頭が働いていない。

(これ以上のことを頭に入れたらパンクする)

理解が追いつかないことは後回しにして、今夜はもう何も考えないことにした。

温泉から上がると、部屋には夕食が2人分準備されていた。



「へぇ、玻璃は民俗学者なのか」

夕食は魚が中心だった。この村で魚が取れるとは考えにくいので、外から買ってきているのだろう。

「まだまだですけどね」

説明が簡単かと思ってそう伝えたものの、『民俗学者』という響きが身の丈に合わずこそばゆい。

「私を研究しても良いぞ」

「結構です」

「雪女と知り合うなんて中々無いのに。では何を研究しているんだ?」

「ええ、…結構ここから近い地域なんですが、ナシャ神と呼ばれている神に捧げる行事についてです」

「もしかして、那舎神(なしゃのかみ)か?溝端(みぞばた)のだろう?そんなつまらないものを研究しようとしているのか?」

「はい」

「そんなの私が教えてやる。あれは他所から嫁いだ女が———……」

「分かりました。もう良いです」

今夜はもう何も考えない、と決めたのに結局仕事の話をしている。


「良いから私を研究しなさい。恰好の研究材料だろう」

「無理ですね」

「どうして」

「雪女というのを隠して生活してるんでしょう?だったら対象外です」

「?」

首を傾げる。

「民俗学は、民間の伝承をもとに調査しているんですよ。小さなマジョリティとでも言うんですかね。集団の中の共通した意識を研究するものです。でも、雪女のことはこの辺りでは伝承にも残っていないですから」

局地的に現象が起こるという点で民俗学はマイノリティの研究だと思われがちだが、研究するのはマジョリティの方なのだ。限られた地域で、広く伝わっていること、信じられていること、行われていることを研究する。

「珍しいというだけでは、研究は出来ません」


「ああ、」

思い出したように江さんが言う。


「気付いていないのか」

(……?)

「ここの村に住むのは、皆雪女だぞ」

「え」

「気付いていなかったか」

箸を落としそうになって箸置きに戻す。まだ少しだけ残っているが、今食事を口に運んでも喉を通る気がしない。


「そんな、……え、皆?」

「そうだ。さっきの女将も、他の従業員も皆だ。こんな変な村でもないと雪女なんて生きていけないよ。私たちは雪の降らない場所に長い間居ると存在が消えてしまう」

確かに、皆彼女のように透き通るほどの白い肌をしていたが、それは寒い気候や温泉の効能によるものだろうと思っていた。

「……」

「驚いた顔も可愛いな」

温泉で折角落ち着いた頭がまた混乱していく。もう言葉も出ない。

「この村は一面真っさらでどこにも足跡が無いだろう。雪が降り続けているせいだと思われるんだが、皆雪女だからだ」


「どうだ?これは『マジョリティ』ではないのか?」

「…気が進まない」

深呼吸をして姿勢を崩し、足を伸ばす。理解を諦めることにした。

「何でだ」

「休暇中に研究したくないから」

「休暇が終わってからで良い。私を研究するなら、休暇が終わっても会いに来てくれるんだろう?」


「何故そんなに研究されたがるんですか?『人間』には内緒なんでしょう?」

「だから、玻璃と会いたいのだと言っている」

(答えになっていない…)


ここまで来ておいて、知らないふりは出来ないのかもしれない。きっと、私の想像よりもシンプルなところに問いはある。つまり、私の与り知らぬほどの好意を寄せられている気がするのだ。「距離が近い」などでは説明が出来ず、更にこの宿まで一緒に歩いて助けてもらったのは私の方だ。

(……さっき理解を諦めたばかりなんだけど)

観念して伸ばした足をまた折り、江さんの方を向いて座り直した。


「ひとつだけ不思議に思っていたんですが、江さんはどうして初対面の私に『雪女』であるということを明かしたんですか?」

外に居る時にこれと同じ質問をしているが、「一目惚れだ」と笑って誤魔化されたままだ。自慢ではないが、私は一目惚れなどされたことが無い。

「……、これはもう少しちゃんと伝えるべきだと思うのだが、」

彼女も箸を置いてこちらを向く。


「玻璃を私の伴侶にしたい」

「伴侶?」

久しぶりに聞く単語のインパクトの方が強かった。

「そう。『結婚』だな」

(展開が早すぎる……)

日常で使う言葉に翻訳された途端に話がヘビーになる。雪女の婚姻の慣習がこのスピード感を生んでいるのだろうか。そうであれば、2人で宿に到着した時の女将さんの喜びようや、夕食の計らいはこのためだろうか。

「私とあなたが?」

「ああ」

「……あなたは女性でしょう?私も女性です」


「それも、マジョリティの話か?」

彼女が静かに微笑む。

「あ、いや……すみません」

「構わない」


「はは、意地の悪いことを言ってしまったな」

「いえ、こちらこそ……」

踏み込んでは行けない部分に触れてしまった。雪女だから、山奥にひっそりと暮らしているから、私たちの価値観とは違うのだと思ってしまった。そんなことは許されない。

「すみません」

情けなくて顔が上げられない。

「まあ、敢えてひとつ言うなら、」


「さっきから雪『女』だと言っているだろう?ここには女しかいない。男など殺してしまったよ」

「……え」

「異性愛の方がマイノリティなんだ」

申し訳ない顔をしたのはこちらなのに、彼女の方が申し訳ない顔をしている。

「そんな顔をしないでください。申し訳ないことをしたのはこちらです。…」

言葉が見つからない。


「…怖くないか?」

「え?」

「私のことが怖くないか?」

「怖いとは思ってません。何でそんなこと言うんです?」

「…『伴侶にしたい』と告げてから、私のことを『江さん』ではなく『あなた』と呼ぶようになった」

(……そうだっけ?)

「……」


「すみません、呼び方は故意ではないですよ」

「そうか?」

「そうです」

「じゃあ名前で呼んでくれ」

「江さん」

「…はは」

やっと江さんが笑顔を見せた。


「元の姿をもう一度見せてもらえますか?」

「良いぞ」

いっさいの予備動作も無しに髪が伸びて白くなっていく。すでに一度見たとしても、現実のこととは到底思えない。

「どうした?」

「…もう一度見たくなって」

「触ってみるか?多分冷たいぞ」

自分の髪をいじりながら江さんが言う。

「良いんですか?」

彼女が頷いて、こちらに近づき頭を少し下げる。どうしてか、実家で飼っていた犬を思い出した。

毛先をひと束持ってみる。言う通りひんやりと冷たく、本当に雪を触っているようで、手の熱で溶けていかないのが不思議だった。溶ける代わりに、するすると指の間をすり抜けて落ちていく。

その冷たさのお陰か、温泉に浸かっているときよりも頭が働いていた。

今、私がやるべきこと。

「あのですね…、」

それは多分、素直に話すことだ。


「私は、個人的な好みですが、私のことを特別に思ってくれる人が…良いです」

(良い大人が、恥ずかしい…)

特別が欲しいと思いながら、特別に思える他人が居なかったし、そんな人間を特別にしてくれる人なんて居なかった。それでも、この「特別」という感覚は譲れなかったのだ。

「村が守っている秘密を話すなんて、他のやつにしていると思うか?そんなことをしたら村ごと絶えかねない。玻璃だけだ。玻璃を見た瞬間に話そうと決めていた」

「…『一目惚れ』なんて言ってたのは、本当だったんですか?」

「はは、疑われていたのか?」

今度は江さんが、私のまだ少し濡れている髪に触れる。

「玻璃は人間なんだから風邪を引くだろう。ちゃんと乾かしなさい」

「……はい」


「一目惚れは本当だよ。どうしてこんな閉じられた村が絶えずに何年も続いていると思う?雪女は直感が働くんだ。自分の伴侶になる者は一目で分かる。まあ、私の伴侶がまさか村の外にいるとは思っていなかったが」

「間違えた、なんてことは?」

「絶対に無い」

青い瞳から目をそらすことができない。

「それは、『好き』という感情なんですか?」

「私たちにとってはそうだ。でも玻璃にはそういう直感が無いから、私のことを少しずつ知ってもらうしかないと思っている。そのこともちゃんと伝えたんだが…」

「いつですか?」

「気に入ったのは玻璃の身体だと伝えただろう?本当は丸ごと全部気に入っているが、感情は共に知って行く方がやさしいだろうと思ってな」

「……分かりづらいです」


「私からも聞きたい。どうすればこれからも玻璃に会える?」

「…会いたいならそっちから来てください」

恥ずかしくて、返答が素っ気なくなってしまう。

「殺す気か」

「……」

「はは、それも良いな」

にぃ、と笑ってみせる。


もう、すっかり圧倒されてしまった。

きっとあの変身の瞬間に心は奪われていた。

どうして惹かれずにいられようか。

こんな突飛で刺激的なもの、惹かれなかったら研究者などしていない。

「マジョリティの研究」などと言っておいて、結局はごく狭い範囲で排他的に形成される集団意識を珍しがっているだけである。

もの珍しさは民俗学者の大好物だ。

それが当然のような顔をしていれば、尚更。

それこそが「特別」だ。

(……)


「お前に言い寄る男を名簿にでもしておけ。殺しに行ってやる」

「そんなことしない人でしょう、江さんは」

この優しい人は、そんなことなどきっと出来ない。今日初めて会った人に対してそう確かに信じられるような、そんな直感が私にもあった。

「玻璃のためだったら何でも出来る」

宝石の瞳が、試すようにこちらを見ている。

恐ろしいものは、美しい。


「……やめてください」

「ははは、分かったよ」



「話もひと段落しただろう。髪を乾かしてあげる。こっちへおいで」

江さんは窓際の隅へ歩いていき、小さな引き出しからドライヤーを取り出して、コードを解き始めた。

私も立ち上がって窓辺まで行き、厚いカーテンを開ける。二重窓越しに外の景色が少し歪んでいる。

しんしんと降る雪、遥か遠くで立ち尽くす街灯。

短くドライヤーの音がした。振り向くとドライヤーのセッティングが終わっていて、江さんが手招きする。

「そういえば江さん、ドライヤーの熱風で溶けないんですか?」

「ははは、溶けないよ。何と言ったってここは温泉だ」

「ふふ、確かに。そうですね」

「村の者は皆、温泉が大好きだよ」


江さんはドライヤーで髪を乾かすのがとても上手かった。熱苦しい風の中で、ひんやりとした手がとても気持ち良かったのを覚えている。

結局、彼女はその日自分の家に帰らず、私の部屋で夜を過ごしたのだった。



終わり

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