第17章 運命との対決 その1 入山

三上ヶ嶽は後代に言う大江山である。


額田部大王の治世十一年四月、大将軍に任じられた麻呂子王子は、そのまま播磨の地に赴いた。


かつて迦楼夜叉を退治した折と同じように務古水門(むこのみなと)から上陸し、今回はそこから北上して三上ヶ嶽を目指すのである。


播磨から丹後にかけては流行病が蔓延していたが、三人は走り物の桃の実を懐に抱いていた。

神話の通りの意富加牟豆美命(おおかむづみのみこと)の神威によるものか(伊邪那岐命が黄泉の魑魅魍魎から追われた時に、桃の実を投げつけて退散させた神話のこと)、あるいは桃弧の持つ破邪の威力によるものか、一行は体調を崩すこともなく山の麓まで辿り着いた。


入山するやシロは警戒心も露わに耳をそばだて、鼻をひくひくと蠢かす。


「普段の猟とは明らかに様子が違います。警戒を怠りませんように」と拓磨は麻呂子に伝えると犬と共に先行する。


麻呂子と茜はそれを追って進む。


「茜、大丈夫か。弩は重たいだろう」


「このくらい、なんともないわ。

そんなことよりも心配なのは弩を発射するに相応しい場所を見つけられるかどうか。それと発射するまで麻呂子が持ちこたえられるかどうかなの」


「そんな心配を?」


茜は急に思い立ったように歩みを止め、首にかけられていた勾玉の首飾りを外し、麻呂子の首にかける。


「これは私の父・志帰嶋大王が遺した唯一の形見。遠くは誉田別命(ホムタワケノミコト=応神天皇)の持ち物だったと伝えられるものです。

我が身を護って下さるのだと母から教えられました。

土熊を倒すまでの間だけ、お貸しします」


「それまでだけ?」


「そうですよ。

だって、普段なら私が常にお側にいますもの。あなたは私と一緒だから安全なのです」


こんな緊張した中だと言うのに、普段通りの茜の強引な決めつけに麻呂子は微笑んだ。


「そうだったのか。茜のおかげで命拾いしてきたということか。ちっとも気づかなかった」と茶化すように答えたが、麻呂子には勾玉に残った茜の温もりまでもが愛おしかった。


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丸一日、山の中に分け入り、シロの後を付いて回ったが、その日は成果が上がらなかった。

ただ、シロだけは敵に迫っているという充足感と敵が近いという緊張感を抱いていた。

それを人間に伝えられないのがもどかしかったはずだ。


「拓磨よ、どうなのだ?」


「シロは自信ありげに見えます」


「本当か?

ここで休むのを嫌がっていないのは、まだまだ我々が安全圏内にいるということだろう?一日かけてもまだ敵に近づけていないということじゃないのか。

三上ヶ嶽は広い。思っていたよりも雲を掴むような話だぞ。シロだってどこまでその力を発揮できるか分からない」


「麻呂子、そんなに悲観するものじゃないわ。まだ、たった一日よ。

猟っていうのは気長に自然を相手にするものでしょう。今回は異界の生き物かも知れないけど、だからと言って焦ってはいけないと思うわ。

土熊が泊瀬部大王の怨念に取り憑かれているのなら、麻呂子に気づけば向こうからやって来るかも知れない」


「茜にだって恨みを抱いているかも知れない」


「私はそこまで過敏になっていないの。

武器はあるし、麻呂子だっている。私たちが眠り込んでしまったとしても、敵が近づいて来ればシロが誰よりも早く感づいて知らせてくれる。

なんでそんなにいきり立っているの」


「そうだな」と麻呂子は吐息を付いたが、何故か分からぬ不安が心の底に澱んでいるのだ。

これが悪い予感というものであろうか・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


翌日、三人が簡単な朝食を済ませ、身支度を調えていると、シロがピンと耳を立て周囲をきょろきょろとし始めた。


茜が「何か」と言いかけるのを拓磨は押しとどめる。

麻呂子が口を開きかけるが、それを待たずにシロは低く「ウゥ」と唸るや走り出した。

シロを追って拓磨も駆け出し、麻呂子と茜はそれぞれ自分の得物を手に取り追いかけ出す。


少しするとシロが猛々しく吠え出すのが聞こえてきた。


麻呂子は俄に緊張し、茜に合図を送った。


シロは獲物を見つけたら追いかけるように訓練されているが、追跡中は吠えないのだ。

吠え出すのは獲物を追い詰めたか、抵抗してきそうな時である。

シロは獲物に手を出さない。

人が仕留めるのを待つように訓練されている。


シロが吠えていると言うことは、土熊を追い詰めたか、抵抗してきたか、ということだ。


前もって、その場合には茜は射撃に適した場所を求めて移動することになっている。


合図を見て、茜は麻呂子と別の方向に走り去っていった。


茜が離れていくと麻呂子は緊張と興奮・恐怖と不安の入り交じった感情が心の底に渦巻き始め、武者震いとも付かぬ戦慄が全身を走る。


追いつくとシロは茂みに向かって吠えていた。拓磨が茂みに近づき、中を窺おうとしている。


「気をつけろ」と麻呂子が叫ぶのと、茂みからウサギが飛び出すのとが同時だった。


拓磨は慌てたのか思わず腰を地べたに付いたが、咄嗟にウサギを追って駆け出そうとしたシロを抱き止めた。


「よしよし、大丈夫だ。偉いぞ」と体を撫でながら拓磨は優しく声をかけている。


興奮していたシロも拓磨に撫でられて嬉しいのか、拓磨の顔を舐めだし、お互いにじゃれ合い出した。


それまでの張りつめた緊張が緩み、麻呂子はホッとしながら拓磨とシロを微笑ましく眺める。


「拓磨、その辺にしておけ」と笑いながらも麻呂子が注意すると、「申し訳ございません」と拓磨が慌てて立ち上がった。


「失敗だったな」と、今度は麻呂子がシロの顔を抱え込むようにして撫でる。


「それは我らの都合。シロには獲物を見つけて追って、人間に知らせるまでが役目。

誉めてやって下さいませ」


拓磨の言を待つまでもなく、既にシロは麻呂子が撫でてくれたことにお返しするかのように、その顔を舐め回していた。


暫くして茜が戻ってきたが「全く男どもと来たら、シロに骨抜きね」と二人とシロの様子を見て取って嘆いてみせた。


「茜、シロは雄だぞ。我らは骨抜きにされた訳じゃない」


「さて、どうなのかしら」と茜もシロを撫でてやる。

シロはもっと撫でろと言わんばかりに茜に寄りかかっていく。


「見ろ、茜こそシロを骨抜きにしている」


そんな麻呂子の言葉を無視してひとしきりシロを撫でてやってから、茜は立ち上がると切り出した。


「さぁ、次はどうするの」


「失敗はしたが、次もシロに頼るしかない。そうだろ、拓磨?」


「その通りにございます」

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