第16章 三上ヶ嶽へ その2 夫婦円満

馬子が鎌姫大刀自に合図すると、彼女が再び手を打ち鳴らす。


再び召使いが、かなり大ぶりな木箱を持って入ってきた。


箱が開かれると、予想に違わず弩が納められていた。


「設計図を元に石上斎宮の職人達が桃の木を材料に完成させたものだ」


「桃ですか?」


「わしはよく知らぬが、邪な鬼のような怪物を倒すのには、桃弧棘矢(とうこきょくし)が必要なのだとか」と言う大臣自身が自分の言葉の信頼性を疑っているような口ぶりである。


「古来、桃の実には破邪の力が備わると、我が国でも古くからの言い伝えがあります」と鎌姫大刀自が言い添えた。


その説明に納得がいかないのか、大臣は声を荒げた。


「あと、弩の扱いには腕前は関係ないらしいぞ。

職人達が試し撃ちをしたところ、狙いを付けさえすれば、まず命中らしい。問題は扱えるかどうか、だ。

それだけの威力の矢を射出するのだから、弓を引き絞るのには相当な力が要る。屈強な男の仕事になる。今度ばかりはお転婆な王女でも出番がありませんな」


麻呂子は茜の顔を窺う。

だが、茜は大臣の失礼な発言に気づいていないのか、あるいは何か気に掛かることがあって考え込んでいるのか、表情に変化が見えなかった。


麻呂子が不思議に感じて眺めていると、ややあって茜が尋ねた。


「鎌姫大刀自様、これほどの武器を石上斎宮様が揃えてくださるとは、土熊とはいかなる怪物なのですか。

麻呂子王子は既に守屋の霊から『天羽羽斬の剣』を預かってございます。それにも関わらず、このような武器までご用意下さるとは合点がいきませぬ。

私共よりも何かご存知であるならば、どうかお教え下さいませ」


ほぅ、と馬子が感心したように吐息を付いた。


「確かに、既に穴穂部と守屋の怨念とも言うべき悪鬼を倒した麻呂子王子に対し、今回は配慮が行き届きすぎと感じるな。

麻呂子王子には既に『天羽羽斬の剣』を物部守屋の霊魂から託されているのだろう。それだけじゃ十分じゃない相手というのか」


「それについて石上斎宮様にはお考えがあるようなのです。

怪物がねぐらとする三上嶽から播磨にかけての流行病。

布都御魂剣や天羽羽斬の剣との深い関連。

特に物部守屋が『天羽羽斬の剣』が必要と申し述べたこと。

こうしたことから、斎宮様は土熊こそが神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)を熊野で御苦しめになった熊が転じた化け物ではないのか、と疑っているのです」


これは神武東征で熊野に上陸した一行が、難波に向かう途中で病に苦しんだことを指している。

その難局を建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)から布都御魂剣を授かったことで挽回し、熊野からの進軍に成功するのである。


「そんな奴が泊瀬部大王の怨念から力を得て復活し、大和を苦しめようとしているのか」と馬子は妻の説明に唸った。


それに対し麻呂子は素朴な疑問を発した。


「むしろ、問題なのはこちらが準備万端であっても怪物が隠れ潜んでいれば見つけられないことです。その手立てはいかが致しましょう」


「いままで惣鬼も迦楼夜叉も困らなかったのだろう?」とは大臣の返事であった。


「それは、惣鬼も迦楼夜叉も姿を現すという場所へ行ったからです。情報通りに彼らは現れました。

この度の土熊は、三上ヶ嶽をねぐらとするとしか知らされておりません。

これでは退治も何も、見つけ出すことすら叶わぬかも知れません」


大臣は困った顔をしたが、それは鎌姫大刀自も同じであった。


「わしには化け物退治の要領は分からない。むしろ経験から言ったら麻呂子王子こそが最も詳しかろう。そうしたことを考えるのは王子の役目の範疇ではないか。

まぁ、泊瀬部大王の怨念を力の源泉としているのなら、向こうの方で蘇我の血を引く王家の人間を黙って見過ごさないだろうよ」


大臣の言葉に麻呂子は「巡り巡った輪廻の輪、運命の皮肉とでも言いましょうか」とだけ返事したが、確信がないのには変わりなかった。


ふと傍を見ると茜が考え深げな顔をしているのが目に入る。

大方、大臣の言葉を気にしているのだろうと思ったが、そのことは触れずにおいた。


はっきりした方針も固まらぬまま、大臣邸への訪問は終わってしまった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その夜、麻呂子は夢を見た。


父、橘豊日大王がそこにはいた。

父は優しく微笑みながら言う。


「自信がないのか。兄の言いなりになることはないぞ。出来ぬことは出来ぬと断りを入れれば良い」


「私が務めを果たさなくても宜しいのでしょうか」と麻呂子が問うと、それには答えずに「熊を追うには犬が要る。だが、お前には犬がいない。それでは成功も覚束ないだろう」と返された。


父の言葉の真意が分からず立ち尽くしていると、父は更に言いつのる。


「いいか、犬の額には鏡を飾ることを忘れるな。鏡は天照大御神のお姿である。真実が照らされるのだ」


「分かり申した」と返事はすれども、何事なのか夢の中の麻呂子には理解しかねた。


目が覚めてみればたわいのない夢である。

その意味も考えずに、一日を過ごしていると夕刻に拓磨の訪問があった。


「熊の化け物を追うとなれば、猟犬が必要だろうと、猟師から借り受けてきた」


拓磨の足元を見ると白い大きな犬がうずくまっている。

拓磨が声をかけると「ワン」と一声吠えた。


その鳴き声を直に聞いて麻呂子は我が耳を疑った。

知らず知らずのうちに茜と目が合う。

すると今度は茜が言う。


「麻呂子様、実は私、夢を見ましたの。兄が熊を追うには犬を使えと言っていました」


よくよく聞いてみると、麻呂子が見たのと瓜二つの夢であった。


「夫婦とはこうしたものか」と笑うと、茜が真面目な顔で反論してきた。


「それは不信心な物言いです。兄の魂が王子を思って助言して下されましたのに、王子が怨霊の方しか信じないのでは、親不孝とも言われかねません」


確かに恨みを持った怨霊が続々と姿を現し、恨みを晴らさんと鬼に力を貸すのに、我が子を心配する魂がいないはずはないだろう。

もっとも麻呂子は鬼が利用するために強力な怨念を捕まえるのだと考えていたから、彼の考えに従えば非業の死を遂げたのでなければ霊魂は現世に留まることなく極楽へ向かうはずだった。


でも、わざわざ茜の言葉に逆らう必要はなかった。

必要のない諍いをするべきではないというのが麻呂子の悟った夫婦円満の秘訣である。


「分かった。以後、気をつけよう」と答えると、茜は嬉々として言い足してくる。


「実は帰宅して、大臣の言葉を考えていました」


やはり大臣の失礼な言葉を気にしていたのか、と麻呂子は思った。

確かに女には不向きな腕力仕事では茜の出番はないのだが・・・・・・


「それで帰ってから、弩を眺めていて思いついたのです。

発射台の先端部両脇に金具を取り付ければ、そこを両足で引っかけて上体の力を使って、私でも弦を引くことが出来ます」


麻呂子は驚きで口が開いてしまったが、良い返事が思いつかない。


「拓磨に犬を任せて、私が狙撃手になれば、また三人で鬼退治に行けますわ」


いやいや、麻呂子は茜を参加させたくないのだ。

今や茜は三人の王子王女の母である。

どう考えたって鬼退治には危険が伴う。


子供達を母なし子にしたくなかったし、彼女の身に何かあれば自分だってどうしたら良いというのだ・・・・・・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


麻呂子の懸念を他所に、翌日からは拓磨が犬を躾ながら訓練を、茜が弩の練習を始めた。


実際に発射してみると弩の威力は凄まじく、五―六十間離れていても面白いように命中する。


「実際の棘矢を発射するとなると三十間以上離れた場合は狙いを調節しないといけないみたい」と茜が麻呂子に語った。


「実際に試し撃ちをしてみたのか」


「ええ、あれだけ重い矢ですもの、ぶっつけ本番という訳にはいかないわ」


「研究熱心も良いが、熱中しすぎて撃ち果たしてしまわないように。

本番用にちゃんと残しておけよ」


「そんな馬鹿なことをするはずないでしょ」と茜はむくれる。


一方の拓磨は預かった犬にすぐに懐かれたようだった。

いや、すぐに麻呂子も茜もこの猟犬「シロ」を可愛がるようになったのだ。


「夢では、父が『犬の額に鏡を付けろ』と告げていたが」と麻呂子と茜は困惑した。


シロの頭に何かを付けようものなら、体をブルブルと震わせて振り落としてしまう。

それにシロは獲物を追う段になると、茂みであろうと藪の中だろうと潜り込んで、どこまでも追跡を続けていく。

体に何か余計なものを取り付けても滑り落ちてしまうであろう。


「犬ではなくて、犬を扱う者のことじゃないかしら」とは茜の発案であった。


こうして拓磨は鏡を取り付けた鉢巻をして随行することになる。


四月になり、遂に麻呂子は豊浦に呼び出され、大王から直々に大将軍の宣下を受けた。


表向きはいよいよ新羅征伐が始まるという緊張が高まった。

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