第14章 弑逆事件 その1 大王の錯乱

その年の十一月、倉梯柴垣宮に献上品があった。

丹波の山で捕らえた鹿や猪、雉などである。


庭に陳列された見事な獲物を目の前にすると、興奮した大王は間近で見ようと屋外に降りた。

そばまで寄って、既に命を失い動かなくなった獲物を惚れ惚れと眺め回す。


その喜びようは少し常軌を逸しているようにも見えた。

この頃になると大王は、思うに任せぬ諸々の事態と打開策のない重圧から、精神の安定を失いだしていた。


大王は近習の者に命じて牛刀を持ってこさせると、わざわざ自分で猪を引っ張り出し、その首に刃を当てた。

自らの手で首筋を切り裂きながら「いつか、この猪のように嫌いな者の首を斬りたいものだ」と叫声を上げた。


周りにいたものは、言葉の意味するところにギクリとし、その浮き浮きとした声の調子にゾッとした。


続けて大王が意気込むように叫んだあからさまな物言いには、一層の戸惑いを隠せない。


「その首級を挙げた暁には全てをやり直すのだ。

臣だろうと連だろうと、その他の取り巻き連中も全ての顔ぶれを一新してやるわ。

朝廷だけではなく、後宮にいる者も、妃だろうが侍女だろうが、わしが好きなように選び直してやる」


血を浴び、獣脂にまみれながらも、大王は雄叫びを上げて一心不乱に作業を続ける。


「わしを縛り付けようとするもの全てこの世から消してやる。なかったことにしてやる。

蘇我の血を弾く者は根絶やしだ。額田部王女でも容赦しないぞ。

全てがわしから新たに始まるのだ。今の王子であれ王女であれ、その時には古い軛に過ぎぬわ。今、わしの周りにいる者は残らず必要のない存在だ」


血まみれになりながら、「先ずは馬子」と大王は猪の首を切り落とす。


次に憤懣やるかたない様子で「何が群臣どもだ」と怒りにまかせて鹿の首を切り落とす。


更に続けて「小手子だ、河上娘だ、あんな奴等に何の遠慮が要りようか」と雉の首が切り落とされた。


全ての献上品の首を切り落とすと、大王は満足したものか、牛刀を投げ捨ててそのまま奥の自室へ引き上げていった。


大王が歩いた場所は、庭から壇上・廊下と獣の血や脂で穢れ、更に血と脂の痕は大王の部屋まで続いた。

そのおぞましさに使用人達は言葉を失ったが、大王の住居をそのままにしておく訳にはいかない。


下働きの者達は落ち着きを取り戻すと、慌てて部屋の内外を問わず、全ての血や脂などの汚れを洗い始めた。


異様な騒ぎと張りつめた雰囲気を気取って自室に籠もっていた小手子であったが、人の声や動き回る音がし始めたのに、ようやく人心地付いて外に出てきた。

だが、そこで目にした光景に我が目を疑った。宮の中がそこら中、血で汚れているのだ。


「な、なにがありましたの?」


近習の者から説明を受けると、小手子の顔はいっそう青くなった。


「あの方は権力に溺れ、狂われてしまったのだ・・・・・・」


小手子は急いで自室に戻ると父の糠手子に手紙をしたためた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


大伴糠手子連が蘇我大臣馬子の屋敷を訪れたのは、それから一刻ほどしてからであった。


畏れを抱いているのか、震えながら話す大友糠手子の話は今ひとつ要領を得ない。

それでも猪の首を切り落としながら放たれた大王の言葉を伝えられると、憤慨して叫んだ。


「なに、大王がそんなことを言って猪首を切り落としたのか!」


馬子は自分の襟首に薄ら寒いような感じを覚えた。大王の本気が伝わってくるようである。


「こいつは食うか食われるかだ」と唸るように声が出た。

「おい、大伴糠手子。お前は飽くまでも大王の側に付く気か」


馬子の気迫に大伴糠手子連は口ごもった。


「覚悟がないのなら手出し無用だぞ」


「戦になってしまいますぞ。都で戦を始めるおつもりですか」


「仕方ないだろう。こっちだって命が危ないんだ。

わしの命だけじゃないぞ。わしの次は、額田部王女や厩戸王子の命もどうなるか。

それでもお前は大王に従うの?小手子だってどうなるか分かったものじゃないのに」


糠手子は表情を強ばらせ、声にならない声を出す。


馬子は苛立って吠えるように問い詰める。


「そもそも、お前、こんな報せをわしに伝えてきたこと自体、大王に対する裏切りじゃないのか」


「大臣殿、・・・・・・・私は何も要らない。ただ、娘の小手子を助けたいのです。

だからこそ、こうして大王への裏切りと承知でお伝えしに参ったのです。

大王は常軌を逸してございます。

常軌から外れた大王に対して臣下が何をするべきか、と真っ当な考えも浮かびました。ですが、それよりも小手子とその子供、私の孫を助けたい。それ以外のことが考えられないのです」と嘆きの声を上げ、懐から小手子の手紙を震える手で差し出した。


そこには血で穢された倉梯柴垣宮での大王の狂気が生々しく記されている。


さすがの馬子も言葉を失った。


ややあって、絞り出すようにうめいた。


「こいつは凄まじい。

もはやわしの次が額田部王女であることは明らか。小手子は疎か河上郎子も命の保証はないと言うことか。

・・・・・・狂気に満ちているじゃないか。

お前の娘、いや、妃はこんな奴と暮らしているってことだ。王子や王女だって安全とは言えない。

こいつは悠長に考えている場合じゃないぞ」


馬子はそばで青ざめている糠手子の様子を窺った上で言葉を継ぐ。


「これから豊浦宮まで厩戸王子を連れて、相談しに行って来るが構わねえか」


「私も行った方が宜しいのでしょうか」


「どっちでも構わないが、大王の謀を知った上で我らが相談しているのを伝えに行かれちゃ堪らねえ」


「信用がある訳ありませんね。私目もお伴致しましょう」


馬子が妙な顔をした。


「どうされました?」


「いや、大王にべったりなお前がいたら、妙な空気になるかも知れないと思ったもんでな。だが、来てもらった方がいい」

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